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【短編】「私とカツ丼」

休みの日のお昼時。私は午後からの用事に備え、腹ごしらえをしよう。と前々から通りがかるが入りはしない定食屋に目をつけた。物は試しだ。と定食屋の引き戸を開く。年季の入った椅子とテーブルとなんだかとても食欲を唆る匂いがした。
私がカウンターに座ると「人気ナンバーワン かつ丼!」「お冷はセルフサービスです」と書いた張り紙が目に入った。
とりあえず注文しようと、直感的にかつ丼を注文しお冷を取って席に戻る。

数分待って到着したのは、あの食欲を唆る匂いの元であろう出汁がたっぷりのかつ丼だった。
私は待ってましたとひとくち頬張り、ハッとした。ふと懐かしい何かを感じたのだ。 なんだろうか…。と、もうひとくち、ふたくちと口に入れて気がついた。このかつ丼、まだ私が幼い頃、祖母が作ってくれたかつ丼の味付けにとても似ていると。

祖母が時々作ってくれた、卵と衣がグズグズのかつ丼。祖父に怒られた日も泣き止まない私にそっと祖母が作ってくれたかつ丼。
お世辞にも「絶品!美味い!」とは言えないかつ丼だったが、私はそんなかつ丼と祖母が大好きだった。 「一人暮らしをする!」と半ば反対を押し切って家を出る時もその日の最後の食卓には祖母の作ったかつ丼が並んでいた。 「あぁ…。あのかつ丼そっくりじゃないか。」 そんなことを思い出しながら、目の前にある定食屋のかつ丼の最後のひと口を食らう。
やはり「絶品!美味い!」とは言えないが体も心もあったまる至高の一品であった。


帰り際、厨房を覗く。私は無意識のうちに、いるはずのない祖母の姿を探していたのかもしれない。もしかして、いやそんなはずは、と。
しかし、そんな淡い期待とは裏腹にそこには寡黙そうな大将がせっせと鍋を奮っていた。
そうか…。いるはずがないか。と会計へと向かう。大将の奥さんだろうか、初めに注文を取りに来た初老の女性が慣れた手つきでレジを打ち込む。 「800円になります。」 そっと1000円札を差し出す。 「本当に美味しかった。また来ます。」と私。 「残念です。今日でしばらく休むんです。旦那の手術が来月あって…。」と女性が言った。
そうか…。またこのかつ丼は私から離れて行くのか。最後、お冷で流したあの味を取り戻したくなった。
しかし、かつ丼をもう一杯食べる程の時間も胃袋の余地もない。 「再開したらまた来ます。」と言って店を出た。.


次、このかつ丼を食べられるのはいつになるだろう。でも必ずまた食べに来よう。と心に誓い店を後にした。

「さて、着いたら目の前のコンビニに寄ってお菓子でも買っていこう。」と私はここから数キロ離れた老人ホーム行きのバスに乗った。
祖母は私を忘れてしまったが、私は祖母を忘れない。祖母のかつ丼を忘れない。今日はかつ丼の話をしてあげよう。
あぁ、やっぱりもう一杯食べればよかった。と私はシートに身を委ねた。 .

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