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BCC #Day4 手塚治虫アーリーワークス  その1 内容編

 ブックカバー・チャレンジ、7日間ということなんですが、7週間くらいかかりそうなユルさで続けております。4日目というか4冊目は、最近出たばかりの本「手塚治虫アーリーワークス」(888ブックス=これで「はちみつ」ブックス)です。

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 この本(というか2冊セットの函入りなんですが)、限定1,000部、定価20,000円というシロモノで。  消費税だけで「鬼滅の刃」20巻の特装版が2冊買えちゃいますよ(読んだことないんですが、地元の本屋さんで、朝、店頭のワゴンで売り出してて何人か行列。帰りに通ったら売り切れてました。凄い人気なんですね)。

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 函に入っている1冊目は「マアチャンの日記帳 手塚治虫新聞漫画集成」と題されておりまして、終戦の翌年、昭和21年(1946年)の1月1日から小國民新聞・大阪版(後の毎日小学生新聞・関西版)に連載がスタートした表題作を皮切りに、10年後の昭和31年までに描かれたさまざまな新聞漫画を、当時の切り抜き(手塚自身がスクラップブックに保存していたものを含む)から復刻した(なにしろこの時代の作品はほとんど原画が残っていない)、実に400ページに迫る分厚い本です。紙質の悪い新聞からの復刻ですから特に初期のものはカスレなども多いのですが、それがまたひとつの味わいになっています。

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 で、こういうのって、資料的価値は高くても大して面白くないんじゃないの?と思われる方もあると思うんです。もちろん古さがまったくないとは言いませんが、基本的に「面白い」んですよ。ビックリしました。さすが手塚治虫(最初は「テヅカヲサムシ」名義)。しかも連載開始当初、まだ17歳ですからね(連載開始予告記事には「19歳」と書いてあるんですが、さすがに17歳に連載を預けてるという体はマズイという判断があったのか……)。4コマ漫画の集積なんですぐに読めるだろうと高をくくってたんですが、ちゃんと読ませるので意外に時間がかかりました。

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 最初の『マアチャンの日記帳』、それからその次のお寺の小坊主ラブコメ『珍念と京ちゃん』(京都日日新聞連載)、これで昭和21年の1月〜8月いっぱいですが、他愛のない面白話の中に、戦後すぐ、という当時の世相があちこちに覗くのも、とても興味深いものです。マアチャンがABCを習おうとしていたり、4月10日に行われる戦後初の衆議院選挙(女性の参政権が認められた初の選挙)がきっと話題になっていたのでしょう、子どもたちも選挙ごっこをしていたり。また、シラミ取りのDDTごっこといって砂をかけあっていたり、チフスやコレラがよくネタとして出てくるのは衛生状態がまだまだ悪かった。ハラガヘッタと行き倒れる人がいたり、配給や闇屋の話も出てきます。こうした世の変革や不自由が生活の一部として存在した。いつの時代であっても何かしらあることなんだろうとは思いますが、読んでいて、コロナ騒ぎで、ものの不足に右往左往させられたり、どこか不自由な暮らしに突入した今の僕らと、微妙にシンクロするような気がして、素直に心に入ってくるんですね。

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 さて、京都の新聞で『珍念と京ちゃん』の連載が終わるちょっと前、7月20日から、『マアチャンの日記帳』を連載していた小國民新聞・大阪版で、4カ月弱ぶりの新連載『AチャンB子チャン探検記』が始まります。ということはですよ、のちに少年漫画週刊誌に並行していくつもの連載を持つことになる手塚治虫は、17歳の時点で既に、新聞漫画を掛け持ちしていたわけです。イヤハヤ南友、永井豪ですよ。で、この『Aチャン〜』で驚かされるのは、それまでの2シリーズが読み切りの4コマ漫画だったのに対し(まあ普通そうです)、これ、4コマなのに続きものなんです。今はこうやって単行本で続けて読めるからいいですけど、当時の人はどういう気持ちで読んでたんだろう? 話の流れを確認するために昨日の新聞を引っ張り出してきたり、あるいは切り抜いて溜めていた人もあったかもしれませんね。新聞の小説は確かに毎日が連続性を持ったものだったでしょうが、4コマ漫画で、しかも4コマを描き始めて半年ちょっと、シリーズにして僅か3つめでこんなことをしてしまう17歳の手塚治虫。かなりヤバイ奴です。ここで早くも彼の長編指向が前面に出てきていると当時に、舞台が海底に行ったり、宇宙に行ったり、ロケットやロボットが出たりと、SF指向も全開なんですね。そして主人公たちの行動を、自身の天使的分身と悪魔的分身が奪い合おうとする「ファウスト」的なところも……ここらへんは手塚漫画に見られる「文学性」の発露と言えましょうか。絵柄も随分、洗練されてきた感じがあります。まだ戦争が終わって1年経ってないのにこの盛り沢山なハジケっぷり。戦争中に溜まりに溜まっていたであろうアイデアが暴発しています(実はこれらの新聞漫画を描きながら、彼は漫画の同人のために長編も描いているのでした……その話は後ほど、もう一冊の『ロマンス島』の方でまた)。ただ、ちょっと惜しいのは、この作品、手塚さんが後に「マンガの描き方」という本で「やってはいけない」と言った夢オチにしていることです。手塚さんもまだまだ若かった(まあ、本当に若いんですが)。

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 さて、長編指向、SF指向がいよいよ堂に入ってくるのが次の『ロスト・ワールド』、前の『Aチャン〜』が終わった翌日、昭和21年の10月21日から、関西輿論新聞で、これは一回8コマです。成人女性が出てきて見初められたり殺されたりと、なかなか大人な内容で、セリフも多い。手塚ファンに嬉しいのは、このあと多くの作品で活躍することになる手塚オールスターズのうち、探偵役でヒゲオヤジが、怪しい新聞記者としてアセチレン・ランプが登場することです。

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 同じ新聞におそらく続けて1947年に連載された『火星から来た男』は1回4コマになりますが、けっこうなハードSFサスペンス。この時代に日本でどれくらい見ることが出来ていたのか分かりませんが、例えばユニバーサル映画のホラーの雰囲気を感じられます。一見、ハリウッドのSF映画の影響もあるかと思ってしまうのですが、本格SF映画の嚆矢と言われたジョージ・パル製作の『月世界征服』だって1950年ですからね、この漫画の方が3年早いんです。手塚さん、おそらくいろんな科学小説で読んだアイデアを巧みなストーリーテリングと画力でエンタテインメントに仕上げている。なんかもう、「大作感」があるんですね。後に『鉄腕アトム』を読んだ(アメリカでオンエアされたアニメ版の『アストロボーイ』を見たのだったか?)スタンリー・キューブリック監督が、『2001年宇宙の旅』のデザインのために手塚さんを呼ぼうとしたという話(手塚さんは漫画やアニメで忙しいので断った)も頷ける先見性ですよ。ところで、これ、各回の下に次回予告的なテキストがついてるんですが、なんか今の民放番組のおせっかいなテロップみたいで面白い。

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  で、その次がまた火星。「こども大阪」に1948年5月から連載された『火星探検隊』。なんとカラーですよ。基本1回8コマで、少年少女キャラがおじさんと一緒にいきなり火星へ。空気が薄いので地球のを少し分けてくれと火星陛下に頼まれて安請け合いするのですが、実は陛下は地球の全部の空気を取ってしまおうという腹で、もめ事になります。10回で完結という簡潔なものですが、これまた最後は主人公の「空想」だったという、なくてもいいまとめがちょっと残念。それにしてもこのカラー、どういう製版だったんでしょう。微妙なグラデーションとか塗りむらみたいなものもあって、とてもキレイなんですよ。

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  同じ1948年の4月30日から、三度目の「毎日小学生新聞・大阪版」での連載が始まったのが『グッちゃんとパイコさん』。これはもう最初の『マァチャンの日記帳』の発展形ですね。帽子こそキャップからベレー帽に変わってますが、マァちゃんとグッちゃんはほぼ同じ。驚くのは第1回で「あしたからサンマータイム(なつじかん)だから とけいを一じかんすすめましょう」というネタ。1948年の5月から日本でサマータイムが採用されていたんですね。しかも「サマー」でなくて"sammer"のスペルというか元の発音に忠実に「サンマー」と言っていた。まだ「夏」が「サマー」であるということも一般的でなかったわけですね。終戦後まだ3年足らず、試行錯誤の時期だった。

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 1950年9月からは「夕刊毎日新聞大阪」に『たみちゃん兄妹』全16回。これもたみちゃんとお兄さんを主人公にした日常ものですが、女の子のたみちゃんの方がメインというのが新しいところですね。一般的な4コマ漫画のように縦に並んでいるのではないレイアウトも珍しい。元原稿というか印刷されたものの状態、あるいはスキャンの解像度の問題か、ちょっと他に比べて鮮明さに欠けるのは惜しい。

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 で、ちょっと時間が飛びまして、1955年。「朝日新聞」の日曜夕刊(日曜日に夕刊があったのか!)連載の『あんてな一家』。タイトルから推察されるとおり、テレビやラジオのネタにしぼった漫画で、おそらくその夕刊にはおそらくその先一週間のいわゆる「ラテ欄(ラジオ・テレビ欄)」があって、その近くに掲載されていたのではないでしょうか。テレビの本放送が始まったのが1953年の2月。きっと、まだまだ高嶺の花ではあったでしょうが(その前年に売り出されたナショナルの初号機は、当時の初任給の54倍の価格だったとか)庶民にとっては非常に憧れる商品だったことでしょう。漫画の中でもテレビは飲食店に置いてあることが多く、一般家庭にある場合は近所の人が見に来ていたりします。メインキャラはヒゲオヤジですが、大人の読者を想定しているせいか、後の小島功なんかに通ずるような、ちょっとクールな描線や空間構成が、それまでの子ども向けの4コマとは明らかに違うスタイル。デザインされた洒脱さ、とでも言いましょうか。それまでの漫画と5年開きがあるということもありますが、この間に手塚治虫の漫画家としての芸幅がぐんと広がった印象を与えます。この時点で終戦から10年経っているわけですが、まだ戦争の影もあります↓。

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 翌1956年からは「毎日小学生新聞・東京版」に『ぐっちゃん』。8年前に「大阪版」に連載していた『グッちゃんとパイコさん』の今風に言えばリブート版ですが、東京の読者にとっては初お目見えだったということになりましょう。パイコさんも出てくるし、設定はまったく同じです。以前のネタの再利用なんかもありますが、ご覧の通り、手塚治虫の丸っこいキャラ造型、柔らかい描線が完成されてる感じがありますね。それもそのはず、『鉄腕アトム』の「少年」への連載スタートが1952年ですからね。多くの人が知っている手塚治虫は1950年代前半に完成された、ということでしょう。

というわけで以上が二分冊の一つ目「手塚治虫新聞漫画集成 マアチャンの日記帳」の方の中身でした(巻末に付録として、「初期雑誌漫画」も少し入ってます)。

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そしてもう一冊はこちら『ロマンス島』。これは1946年には描かれた長編で、原稿の薄墨を使用したために、当時の製版技術では印刷で再現できないと、出版されることがなかったレアものです(手塚さんの死後、文庫版全集の全巻購入特典としてごく少部数刷られたことが一度あったのみ)。今回は原稿と同じサイズでの単行本化、ところどころ抜けのページもありますが、それもそのままスペースを取って再現。これ、本当に綺麗な印刷で、複製原画と呼べる域。特にペンではなく筆による墨の濃淡だけで描かれた幻想的な背景などは、まるで手塚さんが憧れたディズニー・アニメの美術のようです。筆で描かれた背景がと、セルに描かれた手前のキャラクターのような関係性が、この漫画の画面にはあります。

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 というわけでほぼ5000字、長々と書いてまいりましたが、まだこれで終わるわけにはいかない! このセットの祖父江慎さんによる装丁、造本にも触れなければ。これはまたページを改めて。発売から2カ月が過ぎまして、既にこのセット、限定1000部がそろそろ捌けそうな勢いと聞いております。多分、今を逃したら古書市場にもそう簡単には出回らないものだと思いますので、ご興味のある方は早いうちに。確かに高価です。高価ですが、こういうものって、ただ本を買ってるんじゃなくて、こんな本に2万円を出してしまう「自分」を買ってるんだとも思います。


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