見出し画像

『歩いてみたら』 第2章

 2

 休暇初日に思わぬ収穫があった。良質な散歩スポットを発見したのだ。
 家の近所のお決まりコースを歩いていた博一は、少し遠くまで足を延ばしてみようと思いついた。
 どうせ無限と言えるほどの時間がある。家に帰っても暇なだけだ。
  舌を出して息を切らしているケイティに「まだ歩けるか?」と訊ねると、元気のいい鳴き声が返ってきた。
  よしきた。それじゃ、行ってみるか。
  行先は学生時代によく訪れた都立公園に決めた。水沢夫婦が通っていた大学に隣接している広大な公園だ。園内には緑が多く、スケボーパークや陸上施設、トレーニングルームなども整備され、いわゆる「都会のオアシス」として人気を誇る。
 スマートフォンの地図アプリで距離を調べると、徒歩で約四十分とのことだった。
 往復で約一時間半か……。うそ。そんなにかかるの? やっぱりやめとく?
 しばらく逡巡したが、足を向けることにした。静かなリビングで朝の情報番組を観ている自分の姿を想像して、さみしくなったからだ。
 地図を見ながら早足で歩き、公園に到着した。入口を抜けて緑の葉をつけた並木道を進んでいく。前を歩くケイティがしきりに振り返ってくる。普段よりも格段に幅広い道を自由に散策でき、嬉しいのかもしれない。博一の足どりも軽くなった。
 黄色いガイド線が引かれたジョギングコース沿いに園内をそぞろ歩く。十分もすると、野球の内野ほどのサイズの広場を見つけた。広場にはぶら下がり健康遊具や水飲み場、時計台、背の低い外灯などが設けられている。
博一は「ケヤキ ニレ科」というプレートの吊るされた、大きな木の前にあるベンチに腰かけた。
 古びた木製のベンチはちょうどいい具合に東向きである。朝日が体を包む。肺がストップをかけるまで鼻から息を吸い込んだ。久しぶりに朝の匂いを感じる。
 リードを目いっぱい伸ばしてやると、ケイティが広場の中心に走っていった。開放的なスペースで遊ぶことは犬冥利に尽きるらしい。ケイティは何度も鋭いターンを決め、辺りに土を飛ばしていた。まるで独演場だ。微笑ましく眺めた。
 ここ、いいじゃん。ちょっと遠いけど明日も来ちゃおうかな。
 足元に戻ってきた愛犬の背を撫でながら、そんなことを考えた。
 家に帰るとキッチンとリビングが荒れていた。
 由梨が目玉焼きをつくったのだろうか。フライパンとフライ返しがシンクに突っ込まれ、飲みかけのコーヒーが入ったマグカップと、パン屑の残ったプレートがダイニングテーブルの上に放置してある。
 今日からゆっくり寝られると思って油断したんだな。でもそれにしては、ちゃんと朝ご飯つくって食べている……。
 妻があたふたと出かけていった痕跡のおかげで、朝から愉快な気分になった。
 まず、ダイニングテーブルとキッチン周りを緩慢な動きで片付ける。
 続いてソファの背にへばり付いていた由梨のスウェットパンツをたたみ、ローテーブルの上に置く。
 そうしてひと仕事終えると、テトリスのブロックが一列消えたような快感があった。
 冷蔵庫から炭酸水を取り出す。飲みながら、腰に手を当てて家の中を見まわした。するとリビング横の六畳和室が散らかっていることに気づいた。
 パソコンとプリンターの配線が複雑に絡み合っている。鴨居に掛かったままのハンガーは不格好だ。図らずも越冬してしまったであろう、縦長スリムのハロゲンヒーターも目についた。
 なんならあそこも綺麗にしておくか。まだ午前中だし。
 ケイティの朝ご飯を用意してから、博一は掃除にとりかかった。

画像1


 次の日は家を出て、のっけから都立公園に向かって歩いた。
 途中、コンビニでコーヒーを買う。前日はベンチの上で退屈だったからだ。ケイティのひとり遊戯を観覧するだけでは心もとない。
 店頭のマシンで淹れる方式のコーヒーはMサイズにした。Sサイズだとすぐに飲み終わってしまいそうで嫌だった。
 前日に覚えた道順をたどり、公園に着く。例のベンチに背中を預け、ひと息ついた。ケイティが期待した顔で見上げてくる。手元でリードのロックを解除してやると、賢いケイティは瞬く間に駆け出した。厚手のナイロン製の紐がしゅるしゅると音を立てる。元気に満ちたビーグル犬が広場を我が物顔で走り回る。
 博一は片手でコーヒーを飲みながら、もう一方の手に持つリードを強く握った。うっかりすると、ケイティが引っ張る力に負けてリードを手離してしまうかもしれない。両手に気を配るのは意外と大変な作業だった。
 そこでリードをベンチの脚に巻きつけることにした。脚は地中に埋め込んだアンカーに固定してあるので、ケイティが逃走する心配もない。ときどき立ち上がって愛犬の耳や頭のてっぺんを撫でてやる。またベンチに戻ってコーヒーを飲む。何度も同じ動作を繰り返した。
ふと周囲に目をやると、あちこちに人だかりができている。
 肩までフェイスカバーがあるUVカット帽子を被り、電動自転車のハンドルを握りながらお喋りに興じる中年女性たち。派手な蛍光色のウエアに身を包み、車座になってストレッチを行うランナー集団。そして水飲み場の周りに集ってリードを手に持ち、互いの犬を撫でたりしながら談笑する犬の飼い主グループ。
 コーヒーを啜りながらその光景をぼうっと眺める。しばらくして、黒毛のミニチュア・ピンシャーの飼い主であろう女に目を奪われた。
 女はピタリと脚に張りついたくるぶし丈のスパッツを穿き、白いタンクトップを着ている。ヘア・スタイルはポニーテール。ほどよく肉のついた健康的な細い体を揺らし、犬の飼い主仲間の話に相槌をうっていた。
 博一は女を凝視した。由梨とはタイプが違うが、もろに好みだった。
 グループ内の別の女が博一の視線に気づいた。彼女がグループの人びとに何事か言うと、リードを手に持った全員が博一に顔を向けた。だしぬけにタンクトップの女と目が合ってしまった。
 そのとき、ケイティが足元に戻ってきた。
 なんて空気の読めるやつなんだ。サンキュー。コーヒーカップをベンチの肘掛に置いて愛犬の背中を激しくさする。
 ケイティの顔をさりげなく犬の飼い主グループに向ける。すると彼らの表情が柔らかくなり、何名か手を振ってよこした。胸をなでおろす。
急いで立ち上がり、ベンチの脚からリードを回収する。肘掛からコーヒーカップも回収する。犬の飼い主グループを一瞥してから彼らに背を向けて歩き出すと、心臓が大きな音を立てていた。
 自宅マンションに着く。
 ケイティの朝食をボウルに入れ、ソファに深くもたれた。公園で見たグループのことを考える。ああやって散歩仲間がいたら、楽しいだろうなあ。
 グループには老若男女とは言わないまでも、様々な年齢の男女がいた。連れている犬種も多様だった。自分に喋り相手ができるのはもちろんだが、ケイティに遊び仲間ができるのもいいことかもしれない。
 それに、白いタンクトップを着たポニーテールの女。彼女の背筋が伸びた美しい立ち姿が、脳裏に焼き付けられていた。
あの集団と仲良くなれないだろうか。固形ドッグフードにがっつくケイティを見ながら頭を働かせる。
 自分は人見知りだから、いきなり話しかけるのはハードルが高い。ならばケイティと一緒に近くを通って声をかけられるのを待つか? でも何日もそれが続いたら不審に思われない? 「またあの人いるよ」と噂になるのは恥ずかしい。せっかく見つけた快適な広場に行けなくなるのは困る。
 そしたら、どうしよう。食事を終えて足元に来たケイティを抱きかかえ、ソファの上に乗せた。
「ケイティも友達欲しいよな」
 訊いてみたが、当然返事はない。
 そこで博一は、自分が社交的な人間と暮らしていることを思い出した。由梨だ。妻と一緒なら、あのグループと打ち解けることだってたやすい。
 なにせ由梨は雑誌の編集者だ。コミュニケーション能力が物を言う仕事を嬉々としてこなしている。それに、二人が所属していたバスケットサークルでも由梨はいつも皆の中心にいた。合宿の行先の希望を先輩相手に意見できたし、飲み会でつぶれた後輩の面倒見もよかった。それでいて、乗り換え電車を間違えたりするヌケサクな一面もある。およそ人から嫌われることのない人間だ。ときたま勝ち気で怖いのだけれど。
 そうだ、由梨を散歩に誘って広場に行ってみよう。たしか今週の土曜は撮影って言っていたから、日曜がいいかな。そしたら自然と、犬の飼い主たちと仲良くなれるかも……。
 妻の承諾も得ていないのに、すでに博一の心は弾んでいた。
由梨を出しにしてタイプの女に接近を試みるのは少々苦い思いがしたが、べつにそれがメインの目的ではない。まさか浮気をするわけでもない。タンクトップの女を含むグループ全体と話をしてみたいだけだ。しかも、犬の飼い主仲間をつくるのは夫婦にとってもケイティにとっても悪いことじゃない。また自分に言い聞かせた。
 インターフォンが鳴る。玄関で配達員から荷物を受け取り、リビングのローテーブルの上に置いた。前日の夕方にアマゾンで注文した商品がもう届いたのだ。
 買ったのは掃除用具である。厚手のゴム手袋とカビとりスプレー。浴室のカビを除去するつもりだ。
 博一は前日、リビング横の和室を片付けたあと湯船に浸かった。少し汗をかいたので風呂にでも入ろうと思ったのだ。
 午前中からバスタブにお湯を張り、ひとっ風呂浴びるなど、この家に住んでから初めてのことだった。時間があるのにシャワーで済ませるのはもったいない気がした。
 肩までお湯に浸かり、長い息を吐く。
 浴室内の低い位置から壁や天井を見上げた。すると、普段目がいかないようなゴムパッキンの汚れが気になった。湯船から出て指でこすってみる。とれない。指で強くこすってみる。やはりとれない。
 顔を近づけて見ると、それが汚れではなくピンク色のカビだと分かった。
 うわ、気づかないうちにこんなのあったんだ。
 モデルルームのように汚れひとつない家に住んでいるつもりはなかったが、それでも浴室でカビが繁殖しているショックは大きかった。
 これまでは由梨がこまめに掃除してくれていたのだろう。しかし急増した仕事に忙殺され、枝葉の家事まで手がまわらなくなったのかもしれない。その証拠に、洗面台下の収納スペースには空っぽのカビとりスプレーが入っていた。小指に穴の開いたゴム手袋も。
 僥倖。テトリスの細長いブロックが頭上から降ってきた気分だった。
 そうして購入した品物が届いたのだ。
 ローテーブルの上に置いた段ボール箱の中からゴム手袋とスプレーを取り出し、風呂場に行く。
 医療ドラマに登場する外科医のように手袋をはめ、浴室じゅうのゴムパッキンと床のタイルの目地、排水溝周り、ドアの換気窓などに心ゆくまでカビとり泡を噴射した。ゴムパッキン部分はサランラップで覆った。そうすることで泡がカビ内部に浸透しやすくなり、除去効果が高まるのだという。ネットで得た情報だ。
 いったん風呂場から出て、洗面台の前で五分待つ。浴室に戻って泡を洗い流す。
 シャワーで熱湯をかけた部分を確認したら、ピンク色だったパッキンがウエディングドレスのような純白に変貌を遂げていた。
 塩素の匂いがきつかったので換気スイッチを入れる。ケイティが浴室に入ってしまうといけないため、ドアを閉めてリビングに戻る。大きく伸びをした。
 休暇二日目にして、ひとつ大仕事をやりきったようだった。
 そして改めて、由梨の器量のよさに恐れ入った。自分の数倍忙しいのに、「半分ずつ」と決めた以上の微細な家事までやってくれていたのか。
テレビ台の上に飾ってある写真を片手で拝んでおく。ハンドメイドの木製フレームに縁どられた夫婦の写真は、新婚旅行で訪れたダイヤモンドヘッドの頂上で撮った一枚だ。
 ほかに自分が役立てることはないかと考える。そういえば、さっき洗面台の周りも汚れていたような……。
 ただちにスマートフォンで掃除についてのまとめサイトをひらく。必要だと記載してあるものをチェックした。
 重曹とクエン酸とメラミンスポンジ。この三つがあれば、洗面台付近の汚れはカバーできるらしい。
 アマゾンで注文を済ます。《どんな汚れもばっちこい! 魔法のお掃除アイテム》という謳い文句のメラミンスポンジは今後のためにも五パック買った。一パックに二十個のスポンジキューブが入っているから全部で百個だ。脚がむずむずした。
 次の日の夕方には到着とのことだった。
 楽しみだなあ。由梨、気づいてくれるかな。
 水垢の除去された洗面台を想像し、うっとりした。

画像2

 その週の日曜日。
 博一の思惑どおり由梨は散歩についてきてくれた。
 公園までの道中、早朝オープンの洒落たコーヒースタンドでサンドイッチとアイスカフェラテを二つずつ買った。
 由梨が撮影時のロケーションとしてよく借りる店だという。店主と気さくに話す妻の姿を見て、博一は自分の作戦が成功することを半ば確信した。
 由梨とケイティと一緒に公園通り口から園内に入った。
とたん、都会の喧噪がどこかへ飛んでいく。背後で行き交う車の音は木々に吸い込まれ、かわりに小鳥たちの高い声が耳の中に入ってくる。
「私、ここ来るの何年ぶりだろう」
「俺も月曜日に来て、すげー久しぶりと思った」
「大学生のときよく来たねえ」由梨がアイスカフェラテのカップをくるくると回し、氷をとかしている。
「そうだなあ。ここ来るとさ、ケイティが喜ぶんだよね」
「そうなの?」
「うん。なんかやたら走るし、水もよく飲む」
「いいことじゃん。でも分かる。この公園、二十三区内とは思えないもん」
 由梨がケイティの背中を軽くさする。
 博一は目的地に向かって由梨を誘導するように歩いた。さりげなく、さりげなく。例の広場へ、である。
堂々と「いい広場あるんだけど」と言っていざなってもよかったのだが、タンクトップの女の存在がある以上、どうしても後ろめたさからは逃れられない。あくまで自然に歩いていたら広場を見つけ、そこで犬の飼い主グループに出会った、という形に持ち込みたかった。なにも知らない妻の横顔を見て心の中で軽く謝る。
 博一がリードを持ち、楕円型の園内を時計回りに進んでいく。
 じきに広場が見えてきた。「今日に限って無人なんてことありませんように……」と祈りながら目を細くする。だが心配は無用だった。視線の先では、数匹の犬とリードを手にした飼い主たちが円をつくっていた。
「あそこでちょっと休憩しよっか」
はやる気持ちから、思わず早口になる。
「うん。サンドイッチ、食べよ」
 夫婦はケヤキの木の前にあるベンチに腰かけた。由梨が紙袋からサンドイッチを二つ取り出し、ひとつを手渡してくれた。
「ここの美味しいんだよ」
「これもヴィーガン向け?」
「ううん。これはね、生地に全粒粉を使ってるんだって」
「へえ。そういえばなんか茶色いね」
「なにその感想」由梨が眉をひそめる。
 ケイティがサンドイッチに興味を示し、二人の足元をウロウロしている。由梨が「君のは家帰ってからね」と人さし指を左右に振り、全粒粉のパン生地に噛りついた。
 博一は十メートルほど先にいる犬の飼い主グループに、由梨の関心を向けるにはどうしたらいいだろうと考えていた。
 一番いいのは向こうから話しかけてくれるパターンである。いまは由梨もいるし、男ひとりよりは可能性がある。
 だがグループの人びとは話に夢中といった様子だ。となれば、こちらから仕掛けるしかない。完全に由梨頼みではあるのだが。
「ねえ、犬の散歩で来てる人多いんだね」
 由梨が口元を手で覆いながら博一に話しかける。
「え? ああ、そうだね」両手の指を絡み合わせて大きく伸びをする。「あそことか、たくさん犬いるね」
「ね。いいねえ。犬の散歩中に世間話するのとかって楽しそう」
「やっぱそう思う?」妻が喋り終わらないうちに声が出た。
「博一もそう思ってたの?」
「え? 俺は、いや、そうだねえ。あのグループとか、いろんな人と犬がいて楽しそうだなって思って」
「分かるー。あのラブちゃん可愛いねえ」由梨はビーグルの次にラブラドール・レトリバーが好きだ。「遊んでもらう? ケイちゃん」
 ケイティは由梨に言われたことが分かったのか、大きな声で鳴いた。それに呼応するようにグループ内の犬が吠える。
「こら、ダメだよ。ゴローマル」
 巨大なセント・バーナードの飼い主らしき男が水沢夫婦に向かって頭を下げた。すぐさま由梨が「すいませーん。うちの子が」と言って立ち上がる。 そして由梨は手にしていたサンドイッチを博一に預け、ケイティを連れてグループに近づいていった。博一はどうするか迷い、とりあえずサンドイッチを紙袋に戻して成り行きをうかがうことにした。
 妻がグループの人びとに挨拶し、二言三言交わした。はやばやと笑い合っている。どうやら歓迎ムードだ。
 博一は妻のコミュニケーション能力の高さを再認識した。自分の親に初めて由梨を会わせたあと、「お母さんあの子がいいわあ」と懇願されたことを思い出した。
 ほどなく由梨がベンチを振り向き、博一のことを指さす。「ちょっとー」と手招きをされた。
 ここまでおおむねシミュレーションどおりであったが、「なに?」という顔でグループに近づいていく際の、我が身のうやうやしさが気恥ずかしかった。
「これ、主人です」由梨がグループの面々に顔を向けてバスガイドのような手の動きをする。
「どうも。こんにちは」誰と目を合わせるでもなく頭を下げる。
「こんにちは」
「こんにちはあ」
「ケイティくん、可愛いですね。ケイティちゃんかな?」
「ビーグル? 何歳ですか?」
 メンバーからは人なつこい返事があった。
 博一はひとりひとりの顔を見るのに精いっぱいだったが、由梨は皆の質問に漏れなく答えていた。これぞ副編集長だな。ポケットの中で妻に向かって親指を立てた。
 目と鼻の先に例のタンクトップの女がいた。はたして白いタンクトップを着ている。
 この日のスパッツは淡いグレイで、髪は低い位置でまとめていた。足元は歩きやすそうな黄緑色のランニング・シューズ。「目鼻立ちくっきり」というわけではないが、控えめなつくりの顔は間近で見ても可愛かった。奥二重の細長い目。骨組みの正しい細い鼻。すこしめくれた薄い上唇。
 じっと見ていたら目が合ってしまったので、慌てて視線を足元の犬に移す。耳の尖ったミニチュア・ピンシャーは博一を見上げていた。
「みなさんお近くなんですか?」由梨が訊ねる。
 各飼い主によれば、ほぼ全員が公園から歩いて十分かそこらの近所に住んでいるとのことだった。唯一、セント・バーナードを二匹連れている人の良さそうな夫妻だけは水沢家より遠くからこの公園に通っているらしい。もっとも彼らは車で来ているそうだ。
 とくに名前を訊ね合うこともなく、小一時間ほど立ち話をしてグループと別れた。
 その間、犬同士は互いに匂いを嗅いだりして時間を潰していた。
 帰り道、由梨はご機嫌だった。
「いいとこ見つけたじゃん」
「うん」心の底から同意する。「だね」
「私も毎日来たいけどなあ」
「無理しないほうがいいよ」
「なにそれ。自分だけお友達つくろうとしてんの」
 冗談めかして由梨が博一の背中を叩く。
「ま、どっちにしろたぶん平日は起きれないや」
「土日とかね。ゆっくりできる日あったら一緒に行こうよ」
「うん。そうしよう」
 ケイティのリードを引っ張り、由梨が軽やかに走り出した。博一も後を追う。
 駆けながら、長期休暇も悪くないと思った。もしかしたら始まる前の憂鬱は、たんに「休暇ブルー」みたいな現象だったのかもしれない――。
 残り三週間弱の休みに、光がさしたような気がした。

画像3

(3/5へ続く)

この記事が参加している募集

#スキしてみて

527,588件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?