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「?」から育まれるもの

「なんだかもう、日本は国をあげて思考や感受性を切り捨てていくようになっているのだろうか」と案ずることが増えた。

改めてそう思ったのがこのツイートだ。
芸大生からの投稿で、学校のピアノが減らされ、予算削減で図書館にも新しい本が入ってこないのだという。

ちょっと前に、東京都博物館の予算不足が話題になったばかりだし、文化・芸術を大事にしない日本の在り方の恐ろしく感じた。

この、文学や芸術が軽んじられている事と、ひろゆきみたいな極端な発言が面白がられる事、例のスシローでのイタズラの件みたいな動画がバズる事って、繋がっているのだと思う。
すぐにわかる答えをパッと出すのではなくて、答えがない事を考え込むとか、言葉じゃない部分で感動するとか、そういうものが不要なものとされつつあるんじゃないだろうか。

心を動かし、思考を促すのは、一見わからない事柄に対して、例え否定的あれ「どういうこと?」と思う、その「?」だ。生きていくには予想外のことや答えがないことがたくさんある。そこを乗り越えていくのが、試行錯誤による経験値であり、その手がかりとなるのが、文化や芸術、文学じゃないだろうか。そしてそれらの作品もまた、それ以前の作品から影響を受けて生まれているのだ。
そういった、目には見えなくても今現在に静かに影響していることを軽視し、今すぐこの場で面白がれる刺激だけを善しとして良いのだろうか。

先述した、回転寿司でいたずらをした少年たちの話。
あの問題は、彼らが愚かだという単純な事ではなくて、あれを善しとして面白がる土壌を大人が(世間が?)盛り上げてきしまったという事にあるんじゃないかと思っている。

パッとみて面白い事、すぐわかる強い刺激。そういうものがすべからく悪いというのではない。そういった刺激も、わかりづらい静かな影響も、等しく尊重されるべきなのだ。
そこに優劣をつけることを、大人が、そして「生産性の向上」なんて言って国が、積極的に進めてしまったらそれは生産性の向上以前に、価値観の衰退を招くんじゃないだろうか。

崩壊させてしまったものを巻き戻して修正することは出来ない、しかしこれからの社会を全世代で動かすことは可能だ。モラルの崩壊を嘆くだけではなくて、その崩壊に加担しないでいたいと思う。


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