「本当のこと」は厄介だ(小沢健二のこと)
有明・東京ガーデンホールで小沢健二のライブ。
幅広い時代の曲が、しかしきちんと2022年版にアップデートされていて、豪華さと素朴さ、高揚感と生活に根ざした視点のバランスが素晴らしいステージだった。
当たり前であるというのがいかに素晴らしく愛しいものか。というのを、そうとは言わずサラリと表現するセンスに打たれまくるすごい時間だった。
ステージを見ながら感じたのは「この所の自分はこういうものに触れるのが怖かったのだなあ」という事だ。
かつては真摯さや真っ直ぐさをあんなに大切にしていたのに、コロナ禍に陥ってから、私はいろんなことに本当に疲れてしまった。どんなに意思を固く持ってもどうしようもない現実が次から次へとやってくるし、そういう中で人は、生活は、どうなるのかというのを目の当たりにした。
グズグズに溶ける、これまでの「当たり前」を前に何を思えば良いかわからないから、もう何もしないし何も語らない、特に希望も持たない。そう思うようになっていた。
まだ過去形でもなく、今だってそうだ。
そんな中。昨年、こんな曲が配信リリースされた。
逆境でもつながろう、というような、絆や希望や理想を歌う曲がいろんなアーティストから出てきた頃、私はこの曲を聴いてめちゃくちゃ泣いてしまった。
どんなにポジティブな言葉が出てきても、いきなりニューノーマルとか言われても、そんな簡単に気持ちを切り替えられないよ、と思っていたのだ。
「泣いてても仕方ない」というのはよく聞いたし、言った。でも「泣いちゃうよね」というのは言いにくかった。言ってもどうしようもないからだ。
自分の中にある、目を向けたくもない部分を見つけ、その上で他者(=曲)から肯定されたことに深く安心して、私は泣いたのだった。
私は彼の作風が苦手だ。
明るく、易しい言葉で、しかし一見そうとは聞こえない様々な暗喩で、本質を刺してくるから。わ〜素敵!と高揚する前に、びっくりするのだ。
だから身構える。斜に構える。素直に「すごーい」と言えない。
しかし、暮らしの中で、人との関わりの中で、ハッと気づくのだ。「あー、私が今言いたいのは小沢健二が言ってたアレなんだよ…」と!そこでようやく好きになれる。ここ数年の作品は特にそんな感じだ。だから好きだ、すごく。
これからも私は、何か動きがあるたびに、キラキラときめくでもなく、「え〜」とか「参ったなあ」とか言って、時にはため息すらつきながらずっと追い続けるのだと思う。
「泣いちゃう」には最後、こんな言葉が登場する。
そう。怒ったり呪ったりしながら、それでも人は何かを信じて、生きる。
彼の作品に心を震わせ「本当のこと」に気づき、考えるのは私にとって、バツが悪い。
でも「私の人生」にとってはとても重要なのだ。
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