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生活の当事者

日中、仕事。解説部分を作る作業。重かったり考えさせられる内容でも、そこを大切にしつつ、紙面はなるべく柔らかい印象で作りたい…と編集さんと共にうんうん知恵を絞っています。うんうん。

夜、高円寺にて「ヘイトスピーチと闘う国際デー」のデモ。
最近まじでデモの話ばかりですが、いろいろ緊急事態なのでアレです

(撮影・ KENさん)

こうして人が集まっているのを見ると頼もしかったり、自分に何ができるかと考えたり、色々。
ある側面では当事者であるが、別のトピックに関してはサポーターでもある。大衆の一人としてきちんと力にならねばなという思いだった。
そしてこんなふうに行動を企画して意欲的に活動される方に頭が下がります。素晴らしいな。

私もスピーチをさせて頂けることになり心を込めてテキストを書いたんですが議員さんや活動団体の方が、政治的な観点からしっかり強く闘いの声を上げる中、私のはあまりにも素朴な作文だったので「あ…」と思いました。良かったですよ、と言われから良かったのかな…。
ここに掲載して供養します。でも、貴重な機会をありがとうございました。


最近、本当にあちこちで差別や偏見、ヘイトスピーチを多く耳にするようになりました。ちょっと前までは「変なこと言ってる人がいるなあ」と思っていましたが、今や政治や国会の場でまで堂々と差別的な言葉が繰り返されるようになってしまいびっくりしています。

私は精神疾患の当事者です。これまで、不登校になったり精神科に入院したり、色々なことがあったんですが、その経過の中で様々な背景の人に出会いました。

その中には、障害がある方も、外国ルーツの方もいたし、セクシャルマイノリティの方もいました。
差別や偏見、嘲笑の言葉を耳にするたび、私はこれまで出会ってきた人たちの顔を思い出さずにはいられません。

自分とは違う環境や背景の人を不安に思う気持ちは私にもわかります。不安や心配な気持ちを持つな、とは言えません。

でも、それを口に出す前に、ネットに書き込む前に、すこし立ち止まって、考えてみてほしいです。
それは、心の中から取り出して外に放っていい言葉でしょうか。同じ言葉を当事者にぶつけられるでしょうか。

当事者がいる場じゃなければそういった言葉を口に出してもOKと思う人もいるかもしれません。
でも、趣味の話だけで繋がっていると思っている友達や、飲み会で偶然出会った人が、そう言った背景を持っていないとは言い切れません。

人は「私は障害者です」「外国ルーツです」とか「セクシャルマイノリティです」という看板をつけて暮らしているわけでないからです。

そしえどんな背景の人も、あなたや私と同じ、地続きの社会に生きています。同じ社会に生きている以上、すべての人が、「当事者」です。あなたも、私もです。

だから私は、たとえ軽い言葉であっても差別につながる言葉を聞いた時、放っておいてはいけないと思っています。
その人が発した言葉は誰かに繋がるし、私にもつながっているからです。繰り返しますが、私もあなたも、社会生活の当事者なのです。

誰かの言葉に「それは差別です!」とビシッと指摘するのは勇気が要りますし、私もあんまりちゃんとできていません。でも「あなたのそういう言い方ってどうかな」と違和感を表明するだけでも意味はあると思っています。

また、自分が言おうとしたことについて「あれ、これは差別的かも?」と思ったとき、その発言を“しない”というのも小さなアクションだと思います。

そしてもし、これを聞いているあなた自身が理不尽な目にあっていると感じるなら、それもまた尊重されるべき感情です。

権利は奪い合うものでなく、誰もが等しく持っているもの。あなたの手は誰かを助けることが出来ますが、誰かかに助けを求めることもできるのです。

いろいろな人が共に生活するのが、自然な社会のあり方なはずです。
少数派の人を排除することで成立する社会というのはとても不自然だと私は思います。

相容れない人とも暮らす、と言うのは難しいし、ただの理想論と思う人もいるでしょう。
だからこそ、どうしたらの理想に向かえるか一緒に考えてみませんか。


おまけ小ネタ
このようにアクションをしている側から、妨害の野次?を飛ばす人もいたんだけど、声がするや否や参加者の人がスッ…とその人を囲んで現場の向こうに追いやっていて、活動慣れしている人は凄いなと思った。

さらに驚いたのは、その緊張感あふれるやり取りの間を、横にある花屋の店員さんが「ここ売り場なんでどいてもらえますかー?はいすいませーん」と彼らをさばいて横切っていったことだった。あまりにも肝が据わっている…。
好きだよ…高円寺の…そう言うところ…。

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