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同じ地平で呼吸をする(多様性について)

オリンピックが始まりましたが、開催を直前に控え、開会式の音楽を担当する予定だった小山田圭吾さんが、過去に起こした暴力事件が問題となりその責務を辞任しました。
そこからの流れで、思ったことがあったので書きます。

最初に書いておくと、ここに書きたいのは小山田さんの話ではありません。「障害のある人にそんな暴力をしてはダメ」という論調についてです。

怒りは労りに変わらないのか

報じられたのは、とても端的に言うと「小山田さんが学生時代、障害のある同級生に対してハードないじめ(暴力行為)をはたらいていた」という内容でした。
それに対してネットやメディアでは様々な意見が飛び交い、その中には先述のような「障害がある人にそんな暴力を働くのは許されない」という言葉が多く見受けられました。ただ、私はこれに強い違和感を覚えています。

このことで私が思い出したのは、過日の車椅子での乗車拒否問題でした。(その時書いた記事はこれです:誰かの口を塞ぐ手がある )
あの時、あちらこちらで「障害者だけ特別か」「障害者様かよ」などと障害者を非難する言葉が多く見られました。
もちろん今回の事とは問題の性質が違います。しかし小山田さんのことを「障害者にそんなことをしてひどい」という目線から批判している人がこんなにも多いのであれば、あの時声をあげた伊是名さんにも味方の声がもっとあったはずです。少なくとも、出来事とは無関係なバッシングから彼女を守るくらいのことは出来たんじゃないでしょうか。

当時は関心がなかったけど、今回のことで強い関心を持った。だから怒っている…という人もいるのかもしれません。だとしたらそれはとても素晴らしいことだと思います。
そうであればぜひ、これからは、その気持ちを有名人でもメディアの出来事でもなく、あなたの近くの人にも向けて下さい。加害者に直接的な怒りを向けるように、身近な当事者にも気持ちを寄せてください。加害者を叩くその大きな手は、困った誰かに差し伸べる手にもなり得ることを知ってください。

優しく一方的な線引き

そしてもう一つ。先述の内容と相反する気持ちかもしれませんが「障害のある人にひどい事をしてはいけない」というのはどこから湧いているものなのかという事にもモヤモヤしています。
昨今、声高に叫ばれている、多様性への理解。それそのものは大切なことですが、現在の風潮にはどこか「受け入れない奴はアウト」という同調圧力のようなものも感じられます。
もちろん私は、不当な排除やヘイトは許されないことと思っています。しかし、だからといって寛大な心で誰もを全肯定して受け入れられているか?というと、そんな聖人君子ではありません。第一、そんなふうに「優しくあるべき」というのをテンプレのように他者に適用するのは、相手と全く対等ではないと思います。

たとえば、時々、街で大声をあげて「わー」などと叫ぶ人に出会うことがあります。それはおそらく障害や、病気の発作によるものと思いますが、人が突然大声で叫びだしたら、びっくりするのが当然ですよね。
でも、ここでもし「症状に理解があるならびっくりしちゃダメ」と言われたら、それはだいぶ無理があるんじゃないでしょうか。
とっさにびっくりしつつ、知識や経験から「何かの症状なんだろうな」と納得し、手助けやアクションが必要か考える。「いや、でも今急いでるから無理…」とか「余計なお世話だったらどうしよう」とか迷いもするでしょう。それが自然だと思うし、対等な人間関係じゃないかと思います。

また、私は精神障害者ですがもし「あなたには精神障害があるから優しくするね!」と言われたらだいぶモヤっとします(そこまでストレートに言う人はいないですが、それに近いことは言われます)。
私は確かに精神障害を持っているけど、精神障害=私ではありません。思いやりから出る発言なんだというのはわかりつつ、どこか「しっかり色眼鏡で見ますよ!」と宣言されているようで寂しくなるのです。

どんな立場にいる相手であれ人間同士なら必要なのは、相手の存在と向き合うことだと思います。向き合って、話したり、一緒に過ごしたり、相手の気持ちや背景を想像して関わることで(あるいは距離を取ることで)理解は生まれるのではないでしょうか。
話をしたところで、必ずしも共感に至るわけでありませんし、対話を拒否されることだってあるでしょう。しかしそれだって、歩み寄ろうとしなければわからないのです。
考えなしに優しくするというのは、相手の心を受容しているようでありながら、自分の心は閉じている状態で対等ではないし、差別とほとんど同じではないでしょうか。

あなたの目から見る世界

これは、障害について考えている当事者であり、社会に生きる一般市民としての疑問と憤りです。これを書いたきっかけは小山田さんの件ですが、あの話は当人同士に限定された話ではなく、全ての人が我が身に置き換えて考えるべきトピックだと思っています。

見て欲しいのです、他者を。カテゴライズや正論や真っ当な倫理性とは別なあなたの目線から。そして気づいて欲しいんです。義務感だけで人をジャッジすることの残酷さを。

他者と関わり、好きになったり嫌いになったりする中で、相手も自分も血が通った人間であると認識する。そのように血が通った人間で、社会は構成されているのだと意識し、その中で生活する。そういうのが、多様性を受け入れた共生社会なんじゃないかなと思います。

生きて呼吸をしているんだよ、みんな。「ネットの意見」って言葉も、ほんとは変だよ。それを書いているのは生きている人間でしょう。
生きてるんだよ。あなたもその隣の人も、出会っていない遠くの誰かも、ねえ。


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