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改めて、スナップ写真行為に関する考察

以前、撮影者にはカメラを持ち歩く人と持ち歩かない人がいるということを書いた。そのような二分論で語れないことは承知しながら、あえてわかりやすく分けてみた。ここで言う撮影者は一応、仕事で写真を撮っている人を指す。カメラマンの撮っているジャンルによってその傾向が出がちなのだけど、もっと前提の話をすれば、持ち歩くかどうかはスナップ写真を好きか否かだと言える。

ここで、スナップ写真の定義を一応明確にしておくと

スナップ写真=スナップショット
人物などの被写体を、自然な形や雰囲気の中で早撮りした写真。スナップ写真。
(広辞苑)

とある。

自然な形や雰囲気の中で早撮りするには、その撮りたい瞬間に居合わせた時にカメラを持っている必要がある。もちろん、あらかじめ撮影するつもりで、撮影現場でそのような状況を作り出してスナップ写真(の要素を持つ写真)を撮るという方法も多用されているが、話がややこしくなるのでここでは触れないことにする。

”自然な形や雰囲気”とはつまり、不自然でないこと。つまり撮る側、撮られる側の作為的な意図が介入しない状態と言える。

そのような状態はいかにして作られるかと言えば、被写体に撮られるという意図と構えが無い時であり、もっと雑に言えば、普段生活している日常の中ということになる。

このように考えると、スナップ写真は日常の中で作られるものであり、日常の写真と言い換えることができないだろうか。

そしてスナップ写真を撮るためには、構えの無い撮られる側に対して、撮る側は常に撮る構えをしておく必要がある。すなわちカメラを持ち歩かなければスナップ写真は撮れないということになる。

こんなに回りくどく言わなくても、そんなことは誰でもわかっている。自分もわかっているつもりだ。だけど、日々の素晴らしい瞬間に出会うたびに、そしてそれらを逃す度に、カメラを持っていないことを後悔することが多々起こる。

僕はこれまでもカメラを持ち歩くことと、持ち歩かないことを行き来してきたが、noteやブログで文章を書くようになって、完全に持ち歩く派になった。それは正確には覚えていないがおそらく2017年頃からだと思う。それまでは、気分によって持ち歩く時と持ち歩かない時が混在した。

さらに、持ち歩くことを強制させたのは、今年に入ってから始めた写真日記だった。

その日に撮った写真を掲載するというルールを決めたからには、雨が降ろうと、荷物が手一杯だろうと、疲れていようと、カメラを持ち歩く必要がある。自分で決めたルールで、破っても罰則はないので破るのは簡単だ。

しかし自分の中に「もし、この一年間、毎日写真を撮ることができたら何かが変わるだろうか。自分の中にある写真や撮影についての理解が更新されるだろうか」という興味が湧いた。その興味だけが今の自分を動かしている。

とにかくこの3ヶ月は毎日撮った。

だいたい何かしら撮れたが、撮れない日もあって、日記を読んでくれている方はわかると思うがテーブルの上の写真1枚だけの日もある。

そしてこの条件を課したことによって、とにかく歩くようになった。体力も向上しているような気がするし、気分が塞ぎ込むことも少なくなったように思う。

毎日撮ること、歩くことを考える中で、森山大道を改めて思った。とにかく街に出ること。歩くことと撮ることが同義になったし。撮ることと書くことが同義になった。すなわち、歩くことは書くことともイコールなのである。

歩くという行為には運動のイメージがある。エネルギーを消費するし、動く時は思考は停止しているように思える。一方、書いたり写真を撮ったりすることは、どちらかといえば静的である。思考することが求められる文化的活動というイメージがある。

そのような一見対極にあるようなことが、実は表裏一体なのだという気づき。今書いていて、僕が得たものはこれではないかと思った。

歩くことは撮ることで、撮ることは歩くことなのだ。歩くことで撮れるし、書ける。この好循環なサイクルの発見は、今後の制作活動や仕事に生きる予感がする。もっと大きく言えば、長い人生を生きるのに役立つのではないかと思う。

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