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ニューヨークにあって東京にはなかった風景


今回のテーマ:アメリカにあって日本にないもの
by   らうす・こんぶ


日本のバブル景気が終わった頃から、新宿駅の構内や都内の公園などに、住むところを失った人たちのダンボールの家が所狭しと並ぶようになった。そのころからホームレスという言葉があったかどうか覚えていないけれど、今でいうホームレスの人たちがそこで生活していた。だが、いつしかその段ボールの家は撤去され、ホームレスの人たちは他の場所へ移って行った。以来、私の行動範囲内でホームレスの人たちを見かけることはほぼなくなった。まして、紙コップを前に置いて、通りかかる人が小銭を入れていくのを座って待っている人を見かけたことはなかった。

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数年後、私は生活拠点をニューヨークに移した。すると、この街にはほぼ1ブロックごとに片手に空の紙コップを持って、中の小銭をジャラジャラさせながら立っている人たちがいた。小銭をジャラジャラさせているのは「お金をください」というアピールだ。

その後、路上に立ってお金を求める人たちは少し減ったように見えたが、空の紙コップや逆さにした野球帽を前において道端に座っている人や、地下鉄の電車の中で乗客に「お金をくれ」と小銭の入った紙コップを差し出す人、自分の名前やなぜホームレスになったかという口上を述べた後、「ニッケル(25セント硬貨)でもダイム(10セント硬貨)でもペニー(1セント硬貨)でも恵んでもらえたらありがたい」と言いながら、車内を端から端まで歩いて”集金”する人も毎日のように見かけるようになった。

また、戦争で失ったのか、片足や片腕、時には両足のない人、車椅子に乗った人を見かけることもあった。家族が病気で入院費が必要だが、高額で払えないという内容を英語で書いた紙を乗客に見せて歩き、寄付を求めている人にも時々遭遇した。

アパートを出て帰るまでに5人から多いときには10人以上もこういう人たちを見かけるのは、ニューヨークでは当たり前だった。ただ、この人たちがホームレスなのか、本当にお金に困っているのか、ラクにお金を稼ぐ手段としてこれをやっているのかの判断が難しかった。ニューヨークにはホームレスの人たちが泊まれるシェルターがあるから雨露はしのげるし、無料で食事を提供してくれるところもある。お金をあげてもそのお金で食べ物ではなくドラッグを買う人も少なくないのだ。

ニューヨークで暮らすようになって間もないころ、当時ジャーナリストだった友人に、どうして働かないでホームレスをやっている人が多いのかと聞いたことがあった。物乞いなんかしていないで働けばいいのではないかと。彼女は、ホームレスになる人の中にはメンタルに問題を抱えている人が多く、そういう人たちは働くのが無理なのだと教えてくれた。ホームレスと言ってもその背景は様々だ。

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そして去年、20年離れていた(毎年一時帰国はしていた)日本に戻って気がついたのは、新宿の駅構内や駅前の路上に小さな容器を前にして座っている人たちをポツリポツリと見かけるようになったことだった。
             
新宿駅南口の駅構内に、いつも同じところに座っている、私と同年代くらいのおじさんがいる。小ざっぱりしたなりをしているので、小銭の入ったプラスチックの容器を前にして床にじかに腰を下ろしていなければ、ホームレスには見えない。

ニューヨークで見かけたホームレスの人たちは、いかにもホームレス、もしくはお金に困っていることがひと目でわかるような、薄汚れた身なりをしていることが多かったのとは対照的だ。そして、そのおじさんはニューヨークのホームレスのように、空き缶や紙コップに小銭を入れて聞こえよがしにジャラジャラさせるようなこともなく、いつもじっと座っていた。ただ、目の前を通りかかった人が鞄から財布を取り出すような仕草を見せると、目敏く見つけて目を離さなかった。

たまにそこを通りかかるので、私はその人がいつもそこにいることを知っていた。そして、何度かプラスチックの容器にお金を入れた。ニューヨークではあまりにホームレスの数が多いこともあって感覚が麻痺していたが、東京でホームレスの人を見ると、ニューヨークでは感じなかった同情のようなものを感じるからだ。日本人は一般的に真面目で働き者だ。それなのにホームレスにならなければならなかったのかと思うと、その不運を気の毒に思わずにはいられない。そういう同情は失礼かもしれないが。

先日、私はバスで日帰りの帰省をして、夜の10時近くに新宿駅のバスターミナルに着いた。バスの中で食べるつもりでコンビニでおにぎりを二個買ったが、あまり空腹も感じなかったし、あったかいものが食べたくなったので冷たいおにぎりには手をつけなかった。おにぎりは翌日までは持たないから捨てるしかないと思ったが、ふと、あのおじさんのことを思い出した。このおにぎりをもらってくれるだろうかと思ったのだ。

その人がいつもいる場所に行ってみると、夜の10時なのにまだそこに座っていた。私が離れたところで、カバンからおにぎりを出そうとゴソゴソしていると、そのおじさんは私の様子に気がつき、私がおにぎりを差し出すか差し出さないかのうちに手を出してさっと受け取った。

その後、私は近くの地下街であったかいラーメンを食べた。なんだかモヤッとした気分だった。おじさんはおにぎりを喜んでくれただろう。でも、食べたくないおにぎりを人にあげて、自分はあったかいラーメンを食べることに自己嫌悪を感じた。だからと言って、一緒にラーメン食べませんかというのはあまりに不自然でお節介で偽善的だ。そこまでするつもりもなかったけれど。

地上に出て、西武新宿線の駅に向かって歩く途中、歩道の脇で板垣退助みたいな長い顎髭をたくわえたおじいさんが、小銭がまばらに入った茶碗を前にして座っているのを見かけた。私はそこを通り過ぎたが、思い返して戻ると茶碗にお金を入れた。おじいさんがはっきりとした声で「ありがとうございます」と言った。私はさっきの後味の悪さを帳消しにしようと思ったのかもしれない。でも、後味の悪さは消えなかった。

二十数年前の東京では、駅の地下道や道端で小銭が入った容器を前にして座っているホームレスを見かけることはなかった。かつてニューヨークでしか見たことがなかった風景が、今の新宿でも見られるようになっている。




らうす・こんぶ/仕事は日本語を教えたり、日本語で書いたりすること。21年間のニューヨーク生活に終止符を打ち、東京在住。やっぱり日本語で話したり、書いたり、読んだり、考えたりするのがいちばん気持ちいいので、これからはもっと日本語と深く関わっていきたい。

らうす・こんぶのnote:

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