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厄介な「友達」

今回のテーマ:友達

by  阿部良光

厄介な「友達」 と書くと、いかにも嫌な友人でもいるのかと思われそうだが、そうではなく単に簡単そうで実は自分にとっては難しいテーマということだ。

それもこれも、未だ”友達と知り合い”という概念が自分の中ではっきりしていないからなのだろう。そしてあまり考えたこともなかったというのが本音。 FBなどで、「友達が多くていいね」とか「いつも友達と楽しそうにやってるね」とか言われるが、ちょっと違うかな、と思ってしまう。それは友達と言うよりむしろ知り合いと言った方がいいのかな、という思いだからだ。

人それぞれに考えは色々だが、はっきりしない思いがある。友達とこっちが勝手に思ってしまっていいのか、向こう様はもしかしたらそうは思いませんということもある。 知り合いの中にはそれこそ昨日会って挨拶をかわした程度で、翌日からは友達という人もいる。初めてでも人と会って食事でもして会話もはずめば、楽しいことも多々あり、それはそれで友達と呼んでいいのかもしれない。

もちろん長い間の付き合いもあり、それなりにお互い空気のような存在になっている関係もあるし、そんな関係には友達と言うことも厭わない。 しかしこれまで長く生きてくると、現実の社会を見過ぎてしまったからか、心が煤けてしまったからか、『走れメロス』に描かれたあの絆は、究極の友人というか親友関係というか、感動はするがあそこまでできるのかと思ってしまう一方で、友達とはあのような関係を言うのではないかとも思う。

因みに空気のような存在、つまり一緒に何時間いても邪魔にならないとか、言いにくいことをしっかりと相手に伝えられる関係は、親友と言ってもいいとどこかで読んだ。そして秘密を守れることとか、相手の嫌いなものを熟知していることも親友の条件ともあったが、はてさてそれはどんなものやら、、。

自分にとっての友達E君は、日本にいて今時コンピューターはもちろん携帯さえ持たない。(もちろん奥方や娘は所持。)だから年に1、2度の帰国での対面と新年と夏の挨拶時の手紙だけが、お互いを知る情報交換のツール。そしてこの手紙がすごい。俳句を読んだりお能を教える趣味人なので、私には難解な古語や表現で心模様を綴ってくる。辞書を頼りに友人の手紙を読むってもはやシュールだ。でも、友人と対峙して会話をしているような現実感もしっかりとある。 それほど密に連絡を取っていなくても、会えばお互いがどんな感じかわかるのが自分にとっての友達と言える。

一般的な話だが一つ戸惑うのは、友達だから安くしてとか、友達だから手伝ってとか、友達だからと前置きして得を得ようとする関係だ。特にNYには苦労しているアーティストやダンサーとか、芸術系の人々が多く住んでいる。各々が苦労しているのは知ってるはずなのに、こんな行為はあまりいただけないと思うのは自分だけか!?なんだかさもしい気もする。

友達とは支え合うもの!巷ではよく言われている。友達はいかなる富よりも重くて貴重だ。そして財産だ。この辺は加齢とともに認識できてきた。 こんなことをウダウダ考えてる間も、あの人は友達で、あの人は知り合いで、、と自分が篩にかけられていることだろう。いっそのこと友達も知り合いもボーダーライン無しに、せめてグレイゾーンに塗り替えろ、との心の声も聞こえるようだ。


[プロフィール] 1980年10月自主留学で渡米。しょうがなくNYに住み着いた、”汲々自適”のほぼリタイアライフ。

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