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国境を越えるスープ

今回のテーマ:温まるもの

by 福島 千里

あと1ヶ月もすれば、ニューヨークの長くて寒い冬も終わる。
もともと私は東北の雪国育ちなので、あるていどの寒さには慣れている。しかも、ニューヨークの冬は湿度が低く、まるで濡れた肌を刺されるような日本の尖った寒さではない。けれども、さすがに気温が氷点下10℃を下回ると話は別だ。寒いものは寒い。そんな時、体を芯から温めてくれるのが熱々のスープだ。

アメリカ、とりわけニューヨークでは多彩なスープを味わうことができる。各国から移民が集結しているだけに、それぞれの郷土の味を手軽に楽しめるのはこの街の大きな魅力だ。冬季のおすすめは色々あるが、イチオシはボルシチ。ビーツと呼ばれる赤かぶを、人参やセロリ、肉と一緒にじっくり煮込んだウクライナ発祥の真っ赤なスープだ。

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📷:2020年1月、パンデミック前に最後に食べた「ヴェセルカ」のボルシチ

ニューヨークではこのウクライナの食文化に触れることができる。マンハッタン南東に位置するイーストビレッジ地区。小さな日系コミュニティがあることでも知られる地区だが、そこにはもっと古くから「リトル・ウクライナ」と呼ばれるウクライナ系移民のコミュニティがあり、二番街周辺にはキリル文字を掲げた教会やレストラン、雑貨店などが点在している。時代の移り変わりとともにひと昔に比べると店数はだいぶ減ってしまったものの、今でも通りを歩けば彼の地の雰囲気をほんの少し味わうことができる。

とりわけ私のお気に入りはその一角にある「ヴェセルカ」という24時間営業のレストランだ。旧ソ連から逃れた初代オーナーが1954年にオープンして以来、ニューヨーカーにずっと愛されてきている人気店で、現在はそのお孫さんが切り盛りしている。学生時代は深夜ライブからの帰宅途中に、会社員時代は残業後の夕食で、しばしば同僚とここのお世話になったものだ。

店構えはレストランというよりも、ダイナー(食堂)といった方が正しいだろうか。ドアを開けると店内に立ち込める香ばしい匂いが鼻先を掠め、空腹感が一気に加速する。席に着くと、すぐそばをトレイを抱えた愛想の良いサーバーたちが慌ただしく通りすぎ、その度にトレイに積み上げた食器が頭の上でガチャガチャと音を立てる。

ここで私が必ず注文するのは、前出のボルシチ、もしくはチキン・ヌードルスープだ。ボルシチはサワークリームをほんの少したらしていただくのが最高だ。じっくり煮込んだ野菜と肉の旨味がサワークリームの酸味と相まって、なんとも言えない味わいになる。そしてチキン・ヌードルスープ。アメリカではごく一般的なスープだが、ここのチキン・ヌードルスープは格別だ。濁りのない熱々のきれいなブロスに、しっかり煮込んだセロリやにんじん、ポテト、そして身を細かく削いだチキンとパスタ片が浮かんでいる。シンプルな味だが、疲れている時も食欲がない時も、とにかくここのスープを飲めば元気になる。冬の寒さなんて一発だ。店はちょっと騒々しいけど、それでもここに溢れる人々の笑い声と家庭的な空気はいつ訪れても心地がよい。なによりも、身も心も満たしてくれる素朴で温かな料理は、彼らと同じく故郷を離れて暮らす外国人の私にとってとてもありがたい存在だ。

パンデミック以降、久しく「ヴェセルカ」には行っていない。今年の冬も、寒い日には、「あぁ、あそこのボルシチが飲みたい」と、何度思ったことか。そんな折、ロシア軍によるウクライナ侵攻のニュースが飛び込んできた。気になって、「ヴェセルカ」のHPを覗いてみた。トップページには #Stand with Ukraineのハッシュタグが掲げられている。翌日の「ニューヨークタイムス」紙では、ウクライナでの惨状を受け、同店には当地に思いを寄せる人々の長蛇の列ができているらしい。4月24日にはタイムズスクエアでは数百名が集い、戦争反対のデモが行われた。店主も、あの界隈に暮らすウクライナ系住民たちは、遠い祖国の惨状にどんな思いをしているのだろうか。彼の地の人々の穏やかな日常が奪われる様をTVやインターネットを通じて目の当たりにする度、なんとも言えない気持ちになる。

ウクライナから始まったと言われるボルシチは、やがてロシアを含む東ヨーロッパや北アジアにも普及していったという。国・地域の併合や分離が歴史の中で繰り返される中、食文化だけは国境を容易に越え、ただ人々の腹を満たすために広がっていく。けれども、武力による越境は悲劇以外何も生み出さない。

ニューヨークには、ウクライナ系移民のみならず、平和を強く願うロシア系移民も大勢いる。国がどんなに反目しあっても、この街の住人は、個々の思想や所属、文化や慣習の違いを尊重しつつ共存している。国という大きな単位になれば、同様に、なんてわけにはいかない。それでも、祈らずにはいられない。ウクライナの温かな食や日常を、彼の地の人々が再び取り戻せますように。どうか、1日も早く状況が平和的手段によって収束へ向かいますように。


トップ📷:夕暮れ時の「ヴェセルカ」と二番街。店の灯りに招かれるように、温かな料理を求めてニューヨーカーたちが来店する

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📷:暖かい季節にはサイドウォークでの食事も楽しめる

◆◆福島千里(ふくしま・ちさと)◆◆
1998年渡米。ライター&フォトグラファー。ニューヨーク州立大学写真科卒業後、「地球の歩き方ニューヨーク」など、ガイドブック各種で活動中。10年間のニューヨーク生活の後、都市とのほどよい距離感を求め燐州ニュージャージーへ。趣味は旅と料理と食べ歩き。園芸好きの夫と猫2匹暮らし。

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