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走れ人類!

テーマ: スポーツ
by 河野 洋

ニューヨークでスポーツと言えばジョギングだった。そう、過去形。今はもう走っていない。きっかけは家族の影響でなんとなく、だったように思う。1997年くらいから走り始め、翌年に出場したワシントンDCのチェリーブラッサム・10マイル・ランが初めてのレースだったが、思ったより快適に10マイルを完走したことで、マラソンもできる、挑戦しようと安易に考えてしまったのが、そもそもの間違いだった。

もともと走るのは嫌いで、私が通っていた名古屋の鳴海高校には、鳴海走というのがあった。この時、「走ることは拷問だ」ということを体感した鮮明な記憶がある。しかし、中学は卓球部、さらに小学校まで時間を戻すと、春夏は野球部と秋冬はサッカー部と正に熱血スポーツ少年でボールを追いかけるのが大好きだったから決してスポーツは嫌いではなかったと思う。
 
さて、ニューヨークシティマラソンに参加を決めたものの、人気のスポーツなので、申し込みも消印の有効日の朝一には中央郵便局へ投函しに行かなくてはいけなかった。さらに参加料も100ドルくらいだったから決して安くはない。ひと昔、拷問だと思っていたマラソンにお金を出して、時間を削って申し込みするなんて、米国が私を変えたのか、私が米国で変わったのかは定かではないが、過去の自分が、その時の自分を冷ややかな目で見ていたことは間違いない。
 
マラソンは言うまでもなく過酷だ。カモシカのような足でチータのように颯爽と駆け抜けていくトップランナーたちも、絶対に苦しさの全身スーツに身を包まれているはず。1998年11月1日、ニューヨーク・シティ・マラソン、初のマラソンを走った時、自分はまさしくその一人だった。スタテン島をスタートし、ブルックリンを快走し、クイーンズに入る。しかし、ハーフマラソンを完走した距離あたりのクイーンズボローブリッジから、顔面が蒼白になっていくのがわかった。膝がガクガクと痛み始めたのだ。こんなはずはないとシナリオにない展開に頭は真っ白。ここからが本当に長かった。
 
そして、高校時代に勉強した教科書を引っ張り出すかの様に、「走ることは拷問だ」と言う言葉を復唱した。あれだけ暗記したはずだったのに..しかし、初志貫徹、やると決めたことは最後までやらないといけない。時に止まり、水分を補給し、泣きそうになりながら、マンハッタンを北上し、ブロンクスを制覇し、再びマンハッタンへ戻ってきた。「もうダメだ」と言う言葉を何度もハンマーで叩き壊し、セントラルパークまでやってきたが、ここからが、さらに長い。この辺りになると応援する人たちが、何度も「頑張れ〜、ゴールはすぐそこだよ!」と声援を送ってくれる。しかし、「すぐそこだ」と言う言葉は、私を奮い立たせる為の、まやかしの優しさだったことに直ぐに気がつく。

走っても、走ってもゴールは見えない。「すぐそこだ」と言う言葉は「まだゴールは遠いぞ」と言う逆の意味だったのだ。人間不信になりつつも、そんな余裕はないので、ひたすら走る。いや足が上がらないし、膝が動かないので、ヨタヨタと亀の様に進むしかなかった。そんな私の横を、自分より40歳くらいは上だろうと言う初老のランナーが追い抜いていく。
 
しかし、私は、それでも諦めなかった。足を引きずりながら、ボロボロになりながら、ついにゴールが見えてきた。そして、ゴールインした時、それまで体験したことのない至上の喜びと感動を味わったのである。この感動があるから、私は以来、できないことは何もない、やる気になれば何でもできると言う人生の教訓を学んだ。
 
そう、やればできる。走れ、人類!ゴールは近い。

2022年5月23日
文:河野洋

[プロフィール]
河野洋、名古屋市出身、'92年にNYへ移住、'03年「Mar Creation」設立、'12年「New York Japan CineFest」'21年に「Chicago Japan Film Collective」という日本映画祭を設立。米国日系新聞などでエッセー、音楽、映画記事を執筆。現在はアートコラボで詩も手がける。

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