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継続は力なり、いちゃもん大会

継続は力なり。本当にそうなのだろうか。疑問に思い、考えを書き起こすことで結論を出そうとnoteを開く。

まずは意味を引用するところから入るのが鉄則であろう。検索をかける。するとサジェストにはこう並ぶ。

「継続は力なり 誰の言葉」

……

たしかに。「継続は力なり」に対していちゃもんをつけようと思っていたため、愕然としている。誰が言ったかも分からない言葉に言い訳を並べようとしていたなんて、なんて愚かであろうか。

そもそも、最初に「継続は力なり」を耳にしたのはいつだろう。記憶を遡っても思い出すことができない。

物心が着く前から、耳にすることが多くあったように思う。親?祖父や祖母?学校?テレビの中?部活?塾?友達?

とにかく、否応なしに覚えさせられたような気がする。そして、それを当たり前だと考えていた。数十分前までは。

しかし今の私は「継続」も「力」も模していない。これが現代の教育の産物であり、「継続は力なり」といった言葉自体は信じてやってきた私の現在である。

これは私自身も、そして日本も、この言葉を産んだ人ですら納得しないであろう。まさに私は「教育は力なり」の汚点であり、生きる無鉄砲だ。

浄土宗の宗教家である、住岡夜晃(すみおかやこう)が言った言葉とされているらしい。引用元が示されないのは、いい感じのソースを上手く見つけることができなかったからである。

「讃嘆の詩」の中で「青年よ、強くなれ…真に強いとは、一道を生きぬくことである」と綴り、そのまとめに「継続は力なり」と記したことが最初とも言われている。

SOUND HOUSE 「継続は力なり 半世紀にわたる自らの歩みを振り返る!」より


調べても、まあこういった感じでソースを記していないサイトを引用する形になってしまうため、ここに記載するのはやめにしようと思う。

しかし、調べるうちに「讃嘆の詩」の1部を抜粋するサイトやpdfにいくつか出会った。様々渡り歩き、小学校の学年だよりなども検索に引っかかった。

まだ、「継続は力なり」は、インターネットに汚されていない日本語である事がよく分かる。検索の上の方に小学校で配布されるおたよりのpdfがいくつも表示される日本語に出会うことは、そう多くないのではなかろうか。

そのことからもやはり、幼少期にこの言葉と出会い、疑問を持たないままやってきた人間が多いことも分かる。

1895年、広島県山県郡に生まれ、広島師範学校を卒業後、広島県内各地の小学校で教師を勤めた。

Wikipedia「住岡夜晃」


教育関係の授業を受けると、この言葉について話題が出るのかもしれない。住岡自身も教育者であるとするならば、幼い頃に先生から伝え聞いた可能性が高いことも納得である。

つまり、教えるぞと思って作られた一言であると感じる。もしもわたしが継続することが大好きであったら、たしかにそれを教え子に伝えようと考えるだろう。

例えば、私はゲームが好きである。とりわけコンシューマーで遊べる買い切りのゲームが好きだ。私も説得をするならば、こう言うのかもしれない。

「1度買えば、ストーリーが最後まで完結することが保証されている、コンシューマーゲームを購入するべきだ。まさしく『サ終してもなお消えないゲームをプレイすると、力になる』。」

変だ。やはりここで「力」を使って許される内容ではない。今となれば「継続は力なり」は当たり前に受け入れられる名言であるが、改めて考えるとちょっと強引であると受け取ることも出来るかもしれない。

やはり、そういった違和感も含めて生徒たちの頭に残ったのではないか。でもなんか、まとまっているな。といった気持ちになり、この言葉を知った事実をやはり誰かに語りたくなったのではないか。

私も、その1人であることに違いは無い。たしかに、ここまで1517文字。1時間かけて真夜中に入力を続けている。あと1時間で太陽が昇る。

この文章を目にした人がいるということは、このnoteが公開に至ったということだ。ここまで、文字の入力を「継続」したからこそ、その結果にたどりついた訳だ。

が、力になったかと言われれば、さぞかし疑問である。やはり人は早く眠るべきだし、朝日を浴びて今日も一日頑張るぞとなるべきなのだ。

堕落した生活がより悪化するまえにこの辺りでオチを付けようと思う。いちゃもんをつけようと思ったものの、由来を調べるのみで終わってしまった。

次回こそ、いちゃもんにたどり着いてみせる。noteを継続することで、力をつけたと感じた時にまた会おう。




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