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承認欲求との別れ、欲深さとの出会い

欲深い!と友人に言われて笑った。その通りに思う。一日のうちで、読書もしたいし絵も描きたいしゲームもしたい。

アニメも見たいし映画だって見に行きたい。映画館に行ったら画面から一時も目を逸らしたくない。しかしポップコーンは食べたい。

そしてなにより、私はインターネット上のさまざまな場所で自分を見せびらかしている。文章はnoteに載せているし、イラストはTwitterだけに飽き足らず、TikTok、pixivにも上げる。

表現したものを見せびらかしたいため、アカウントに鍵はかけない。しかし以前はどうだっただろうか。自分の持っていた承認欲求を振り返る。

自分のイラストにどれほど価値があるのかをインターネットを通して測っていた。そのため、いいねがつくと大喜びして心臓をバクバク鳴らし、いいねがつかないと落ち込んで、もう表現なんてやめてしまおうと思った。

自分は絵が下手だから評価されないと思っていた。しかし、本当にそうだったのだろうか。私に必要だったのは、実際の自分と、想像の中の自分のすり合わせだったのではないか。

好きなイラストレーターである宇井田ルイ先生がメイキング動画の中で、「自分のイラストが好きで、描き終わったら印刷できるようにA4サイズのキャンパスに描くようにしている」と仰られており、なるほどと思った。

該当動画を見つけることが出来なかったため、好きなメイキングのリンクを貼りつけようと思う。


感銘を受け、自分も真似をするようになった。いいねに囚われるのが嫌だった。しかし数字を気にしないことも出来ず、空回りをしていた。そんな中今までで自分が1番良く描けたと思った絵を、ダイソーで買った額縁に入れて机の後ろの壁に飾った。

壁に掛かったイラストを見た時に、涙が出た。この絵を描こうと思い立ったときの感覚、描いていて楽しかったポイント、難しくて何度も資料を見返した服のシワ、表情、色の使い方。

こんなに工夫を凝らして時間をかけて、楽しんで描いていた絵を、いいねがつかなかった1点の理由で貶して落ち込んで、はたして良いものだろうかと思った。

当時アカウントにはフォロワーが60人ほどいて、このイラストはたしか、16いいねほどだったように思う。

当時は、こんなにも人と繋がっているのにもかかわらず、これだけ努力したにもかかわらず、この程度しかいいねが貰えなかったということ。それはとんでもない駄作を生み出して、私がひとりで図に乗ってしまった結果なのだろうと落ち込んだ。

しかし、額縁に入れて分かった。この絵は、良い。やりたいことをやっている。これはたしかに、自分が描いた絵だとおもった。

イラストをTwitterにあげた時、イラストは手元から離れてインターネットのものになるような感覚があった。しかし、印刷して壁に飾ってみると、たしかにこれは私の作品だと、想像と現実の齟齬を擦り合わせることができた。

それ以降、私は自分の絵が好きになった。人の絵と自分の絵を比べることがなくなった。私が描いた作品である時点で、他人と比べるのは見当違いだと思った。

私が良いと感じた要素を今できる実力で表現したイラストだ。良いとか悪いとかの評価をつける自分の中の評価基準の方が、誤ったところに照準されているのではないかと考えた。

「絵を描くことを楽しんでいるところが好きだ」と言ってもらう事がある。本当に嬉しい。

私が絵を描くことを楽しんでいることを否定せず居てくれる人がいるおかげで、私は絵を描くことをより楽しむことができるようになった。私は絵を描く過程が好きだし、人の絵を見るのもすきだ。

出来ないから評価されないのでは無い。評価されないから出来ないのでもない。

額縁に自分の絵をかざり感覚と事実の擦り合わせができたことで、大切な人から貰った言葉を受け取れるようになった。

今、私のTwitterのフォロワーは99人いる。昨日あげたイラストについたいいねは、6だ。額縁に絵を飾り始めてから3年程度経過しているため、絵は上達しているだろう事が予想できる。

もちろん、私は絵を描き続ける。大切なのはやはり、自分の新しい絵が見たいと思う欲深さではないだろうか。これからも自分の強欲な姿勢を信じ、趣味を楽しんでいきたい。




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