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noteを書く意味って何だ

noteを書く意味ってなんだろう。何となく始めたけど、何となく続いている。時間に余裕があるから書いている。

昨日思ったんだけど、noteに日記を書くことで創作意欲が満たされて、近々絵を描けていないような気がする。このふたつ、何かを生み出すという点で頭の中でも使う位置が似ているのだろうな。

今までを思い出す。日記や手帳を書きたい欲が強い時は大抵絵を描いていない。今回も同様のパターンなのだろうか。noteは毎日必ず書くと決めている分、絵を描く足でまといになってはいないか?

noteを書くことで私が学んだり感じていることってなんだろう。私は字を書くことや考えを記録に残すことが好きだ。しかし個人情報を考慮して、noteはやっぱり事実を全て書き記せる訳では無い。

日記で良いのではないか。手書きの日記は相変わらず今も続けているけれど、自分の中でnoteを書くことが何に繋がっているかがまだ分かっていない。

人に気持ちを伝える練習?恥ずかしいことも全部記して認めてもらうことで感じる受容感?

そういえば、最近聞いているポッドキャストで、学ぶならばそれを発信する場を作ることで初めて知識が身につくという話がされていた。


それには大きく頷いた。やっぱり、人に解説したり、実際に使うことが前提になっていると理解が深まる。より実用的な部分まで疑問が浮かんで学びが捗る。

私が日記を書き始めた理由も、遺書という面が大きかった。私が死んだ後に、読んで苦痛を知ってもらいたかった。今、その意図自体はだいぶ薄れているけれど、人に読んでもらう事を念頭に赤裸々な日記を書いているのは違いない。じゃあ、ここは?ここで私は何を残したいんだろう。

考えすぎる癖を治したらどうだ、とよく言われる。今回の話題はまさにその域だ。考えた末に見えてくる、自分を形作る根幹を見るのが好きだ。私の好きなこと、苦手なこと、得意なこと、出来ればやりたくないこと、色んなことを見る。俯瞰することで見えてくる、自分の心持ちや感じ方の傾向を発見するのが好き。

目的なく続けて、たどり着いた先がここでした、というのもなかなか面白いと思う。ただ今、私はなんのために書いているのか、それを理解することでより充実感を得ることができるように思うのだ。

書くことが好き。それでいい。分かっている。でももう少し、自分を形作る根元に触れてみたい。

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