見出し画像

主観

色々をきっかけに(色々と言いつつ1つか)、自分の知覚世界について考えることを意識的に増やしていて、やはり自分の見ている世界はどこかしらずれていることを認識する日々。
前も、「東京は青いイメージがあるからいい写真がいっぱい撮れそう」って言ったら、「ビルで青空が反射してるからね!曇りはグレーね!」と言われて、「なんか違うかも…」と返したりしたので、自覚はあったけど、より顕著に。(なんか違うかも、の正体は、多分自分が街とかのイメージを色で持っていて、その色がフィルター的に目にも見えている)

と、主観的に生きていることを自覚し始めた。

色々話すと、多分どこかで未来の何かをかすってしまいそうなので、口を閉ざしますが…

少し人と違ったところで世界を見ているのかな、と思う

生きている中で人があまり意識しないようなところに注目していることが多いような気がする。そうすることで、自分の制作が成り立っているような気がする。気のせいかもしれないけど

例えば
この世界は偽物みたいだよな〜とか。
偽物、という単語は、それに近しいから使っている便利な単語であって、本当にそれというわけではなくて、それに使うべき適切な単語が世の中にないので用いります。(←この時点で随分ひねくれている)
自分が見ているのが、ごく一部でしかなくて、その全体像は捉えきれていないイメージ。かといって、その一部も「本物」をかすっているのではなく、そこにはこれまで生きてきた中で培ってきたフィルターたちが間に挟まっている。

その世界をあえて、今、こうやって写真に切り取ったりする行為が、自分自身の中でも、意味のあるものになりつつある。

東京青い、の話の時に、「自分の目に見えているものと、人に見えてるものが違うから、芸術はコミュニケーションだよね」的な話をして、確かにな〜の気持ちになった。芸術がコミュニケーションである以上、切り取って、見せることに意味がある。作って終わり、ではなく。

主観的に生きているところに、また別の視点で主観的に生きている他者が入り込んでくることで、ぼくの世界と彼らの世界が混ざるような、(混ざる、が正しいかは置いておこう)そんな感覚。

だからこそ、他者が関わることで完成する、誰かに鑑賞される事で完成する、という作品形態が好きなのだと思います

自分が見ていて、感じている世界はこうなんだけど、あなたに影響されてこういうふうにも変わるかもしれなくて、、、みたいな可能性を、常に持ち合わせている。


さて、まとまらなくなってきたので、この辺で終わりにしよう


そうやって自分の考えをぐちゃぐちゃになりながらも、整理できる環境があることに感謝です、いつもありがとうございます


ねう

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?