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子猫ちゃん、どこイクの?[SF小説]#2

※はじめにお読みください

 朝になって4階の仕事場にいるカナエを見つけた瞬間にアイが駆け寄ってきた。
「カナエちゃん! 戻ってたんだね」
「ああ……昨日のうちに戻ってたけど、アイたちの寝てる場所がわかんなくてテキトーなとこで寝ちゃってたわ。心配させてごめんな?」
「ノマちゃんと会えた?」まだ心配そうな顔のままでアイが聞いた。
「いや……ジュカに聞いたけど、自分は知らないから、調べて後で教えるってさ。……あたしがミカの死亡事件を調べるのと交換で」
「ミカ事件か……」アイがそれだけ言って黙った。そのとき入ってきた中肉中背の中年女性がアイに声をかけた。「アイちゃん、ここに居たの」
「サトさん、おっはよ」アイは顔を上げると、サトにカナエの方を指して言った。「見て、カナエちゃんが戻ってきた」
「あら! 髪の色が違うから気がつかなかった。またここで働くの?」サトは元からくりっとした両目をさらに丸くしてそう言ったが、口調はおだやかだった。
「うん、そう」カナエがそれだけ言うと、サトはもうすっかり納得したようで、それ以上はなにも聞いてこなかった。それはここ築6に限らず旧都市圏に住む人間が共有している文化のようなもので、個人の事情などいちいち詮索しない不文律だ。わざわざここにいるのは、それなりのワケアリに決まっているからだ。サトのように長い間このあたりで生きている人間にはそれが染みついている。
「下にマミがいるから、移動しない?」サトがそう言うと、「そうだね。カナエちゃんも一緒に行こ?」とアイが言うので、カナエも場所を移動することにした。
 築6ビルでは3・4階はぜんぶが仕事場として使われ、5階は資材置場と一部が仕事場になっている。6階以上が作業従事者の居住区だ。ドローンが屋上に荷物を運んでくるので上の階も荷物置き場と作業場になっている。
 4階はハカタCCCがここを利用するにあたって最も改修したフロアで、ほとんどすべての部屋の壁が取り払われてひとつながりとなっており、そこにびっしりとテーブルと椅子が並べられ、数百台ものモニターが隙間なく置いてある。すべての作業用モニターは5階のサーバー室にあるコンピュータに接続され、そのコンピュータ経由でクシナダ本部のコンピュータとデータをやりとりしている。ここで働くことを許可された作業者はどのモニターで作業しても問題ないが、大部分の作業者は4階の大フロアで働くことを好んでいる。3階よりも安全だからだ。
 カナエたち3人は3階の仕事場に向かった。3階は4階とは違って大規模な改修が行われず、過去の部屋割りがそのまま利用されている。廊下に並んだ部屋の一番奥の左側のドアを開けると、中央に置かれた大きめのテーブルに6つのモニターが置かれている。窓側のモニターをにらんでいる女性に声をかけようと部屋に足を踏み入れたとたん、足に何かがぶつかってカナエの体が少しよろけた。
見ると、ほんの小さな子供がカナエの足にしがみついていた。横にいたアイが「違うよ、そっちはカナエちゃん」とその子に声をかけた。窓際の女性がモニターを見つけたまま、言った。
「ユウ、うろちょろすんなって言っただろ! こっちで座ってろってば!」
「カナエちゃんは覚えてる? カナエちゃんが出ていく前に生まれてたよね?」子供を抱き上げながらマミに確認するようにアイが言った。
「いや……そういやなんかゴタゴタしてた気がするけど。……マミ、ひさしぶり?」カナエは窓際の女性のそばまで近づいて薄茶色の専用ゴーグルを付けた彼女が見ているモニターをのぞきこんだ。マミとはそれほどつきあいがあったわけでは無いので、彼女が自分を認識しているのかどうか、はっきりとはわからなかった。同じ築6ビルに居住している女たちでもお互いにまったく関わり無く過ごしている者が多くいるのだ。熱心にモニターを見ているわりにはマミの作業はうまく進んでいないようで、カナエがちらっと見ただけでも確認するべきタグがいくつか画面の向こうにそのままの状態で流れていった。
「あんた、派手な髪のヤツだったよね。帰ってきたんだ」ほとんど興味が無さそうに一瞬だけカナエを見てからまたモニターに視線を戻してマミが言った。「あーもう、今日のは動いてる奴らが多くてイライラする。なんでこいつら外を出歩いてるんだ……」
「あたしのだっていつもタグがいっぱいだよ。自動割当セクションなんだからしょうがないだろ?」サトがそう言いながら反対側の真ん中のモニターの前に座った。カナエがマミの横に座ると、アイが子供をかかえたままその隣に座った。
「カナエちゃん、やり方覚えてる?」モニターを認証しながらアイが聞いた。
「たぶんね」カナエは答えながら資材置場から取ってきた新品のゴーグルを装着し、モニター画面を確認した。彼女の認証情報が表示され、そのままクシナダのパトロールドローンが撮影した映像のセクションがロードされる。ゴーグルが初期セッティングを終え、カナエの目線をトラッキングした赤くぼんやりした円がモニター上をさまよう。しばらく映像を注視するうちに円が赤い点に収束するようになった。
 カナエの目線に合わせて赤い点がせわしなく映像の上を行き来する。
 上空から撮ったどこかの街の映像は、ドローン自体の移動のうえに四方に動く人々の動きが合わさり、すべてを目で追おうとすると確かにひどく神経を使う。基本的にはAIが自動的に付けているタグ表示だけを確認すればいいので、始めてから5分後にはカナエはそこにどれだけ人が写っているのかまったく考えなくなった。ただモニターを見つめ、タグが現れたときだけそれを注視するとメニューが現れ、動画の速度を遅くする。AIは動画に写ったすべての人々の動きを解析して、一定の《通常/異常》のしきい値を超えたものにタグ付けを行う。酔っ払いがわめいていたり、男が通りすがりの女を触っている程度は《通常》範囲内で、《問題無し》チェックを付ける。タグ付けされた人間にマニュアルに規定された《異常》があれば、タグの種類を変更する。仕事の内容はそれだけだ。《異常》タグがついたらどうするのかなんて築6では誰も知っていない。車両の異常運動については別の専門部署が処理している。築6で確認作業をするのはクシナダが委託されている福岡都市圏の街中のパトロール映像の中の人々の挙動だけだ。
 ゆっくりと移動していく似たような違う動画セクションが絶え間なく移り変わり、十数秒ごとに表示されるタグを確認しながら《問題無し》チェックを付けていく。その流れのなかであるタグの動きに目を引かれてよく見ようとした矢先、後ろからグッとひっぱられた。ふり向くと小さなユウが不思議そうな顔をして服をひっぱっていた。カナエはどう反応していいかわからず、そのまま2人は見つめあった状態で固まった。アイが気づいて、ユウに手を伸ばした。「ユウちゃん、カナエちゃんの邪魔したらダメだよ。こっちにおいで」
「ほっといていいんだって! 仕事が進まないから」マミがやはりこちらを見もしないでそう言ったが、それからすぐモニターから目を離して両手を上げて伸びをした。
「あーもう疲れた。嫌になった!」
「まだ始めたばっかりじゃないか」向こうからサトが声だけかける。彼女はすっかりモニターに集中して手も忙しく動いているが、その状態でもまわりの状況も把握できるようだ。
「こんなややこしくてつまんねえ仕事、もううんざりだよ」マミが疲れた顔で言った。確かに、彼女の顔は前とくらべてずいぶんとやつれているように見えた。カナエが実家に帰る前の彼女はまだずっと元気だったはずだ。伸びをしながら椅子を引き、マミの上体はそのまま倒れてテーブルに頭をつっぷし、両手は下にだらんとたれさがった。アイの手から離れたユウが母親の方に行き、彼女の体をゆさぶったが、マミは無反応だ。ユウはそれでも母親の服をめくろうとしながら「ちっち、ちっち」と言った。
「父ってどういうこと? 母じゃないのか?」カナエがついそう言うと、アイが「そうじゃなくて、おっぱい欲しいって言ってるんだよ」と答えた。おっぱい? ああ、そうか、赤ん坊は母乳を飲むんだっけ。カナエはユウくらいの動きまわる大きさの子供でもまだ母乳を飲むということを知らなかった。ユウはマミの服をつかんですごい勢いで彼女の膝によじ登ると、よれよれの服をめくりあげて勝手におっぱいを吸いはじめた。マミはその勢いで頭をテーブルから持ち上げられたが、放心した顔でされるがままになっている。すげえでっかいダニに食いつかれてるみたいだ、とカナエは思った。
 ユウはおっぱいを吸い終わるとそのままおとなしく母親にもたれかかって眠そうになったので、マミはやりにくいとは言いながらもしばらくの間はみんなが仕事に集中していた。しかし、やがて部屋じゅうに糞の匂いが充満したので、アイが「うんこしたんじゃない?」と言って立ち上がった。サトも立ち上がってオムツを探し出した。「ほら、まだここにあった」2人はユウをマミから引きはがして床に立たせると手際よくズボンを脱がせてオムツを交換しだした。「オムツ、また配給に入れてもらうように頼んでおかなきゃ」サトがつぶやくと、2人の作業を見ていたマミが「オムツを配給に入れるから他の品物が減らされるって上の奴らが言ってくるんだよな。すっげえむかつく……」と言った。
「そんなわけないのにね」アイがマミを見ながら言った。「人類は絶滅に向かってて、子供は貴重なんでしょ? もっと優遇してくれたらいいのにね。アウターの子供だって……」
「アウターなんてみんなゴミだって思ってるよ、CCCの奴らは」呆然とした顔のままのマミが言った。
「生きようが死のうがどうでもいいんだ。みんな死ねばいいって思ってんじゃないの」マミが言うと、仕事に戻ってモニターを見ていたサトが顔を上げてそれに答えた。
「そんなこと無いよ。頭のいい人たちが必死に研究してるらしいよ。じゃないとあと百年くらいで絶滅するんだってさ」
「そんな先のことなんてどうでも良くねぇ? っていうか先のことなんてわかんないじゃん。百年後じゃなくて、今もうバッタバッタ死んでるよね? うちらの近くで」マミが妙にムキになって言い返した。
「そういえば……ミカが死んだのを調べるんだよね? カナエちゃん」アイが思い出したようにゴーグルをはずし、カナエの方を見て言った。
「調べる? 何を?」マミがこちらにも食いついてきた。「ミカなんか死んだって、どうでもいいのに」
「それが、ジュカにとってはどうでも良くないんだ。……あたしは頼まれちゃっただけだけど」カナエも顔を上げてそう答えた。
「あたしたちもジュカからいろいろ聞かれたけど、なんでミカが死んだのか誰もわかんなかった。だいたい、ミカがどうなってたのかも知らないんだよ。カナエちゃんは何か聞いた?」アイがそう聞いたので、カナエが話しだした。
「まあね。ジュカからデータをもらったけど、ミカは1ヶ月前の1日の昼過ぎに駅向かいの公園の横の道で倒れてて、ドローンからクシナダに情報が行ってエキケイに伝えられた。それはジュカが姉だからじゃなくて、単にエキケイの管轄ってことで伝えたらしいけどね。
 その時ちょうどジュカは天神のグシカイのアジトに行ってて、すぐに現場に行けなかったそうだけど、エキケイの男たちはミカを動かしたりせずに、現場でジュカが来るのを待ってたってさ。
 ミカはエキケイが来たときにはもう死んでたらしいけど、目立った傷も無いし、ジュカが調べてもなんで死んだのかはわからなかった。警察を呼んだけど、もう死んでるなら何もできないから勝手に処理しろって言われたと。まあ、警察はそんなもんだ。
 クシナダのドローンにはミカが歩いてるとこと倒れてるとこしか写って無くて、肝心な部分は無かった。ジュカは自分のツテをぜんぶ使ってミカがどうしてそうなったのか調べまくったけど、結局はその映像以外に何の情報も出てこなかった。ただ、最初にミカのとこに行ったエキケイの奴が、オヲハのメンバーが居たっぽいって話をジュカにしたから……」
 カナエがそこまで言うとサトがモニターから目を離してサッと彼女に目を向けた。アイもまたカナエに驚いた顔を向けている。さらには椅子に寄りかかってだらんとした体で話を聞いていたマミが急に体を起こし、ムッとした顔になって突っかかるようにカナエに言った。
「オヲハ? オヲハの誰が?」
「さあ? エキケイの奴もチラッと見ただけでそれはわかんねえって言ったらしい。ただ前々からオヲハの奴らが駅のまわりをウロウロしてたのをジュカに言われて追っ払ってたから、そんときも見覚えのある奴が居た気がしたって」カナエはみんなを見回して少し笑いながら言った。「何だよ? みんなどうした?」
 アイはサトと顔を見合わせると、カナエに言った。「シンゴさんと、リョウがオヲハに居るんだよ」
「シンゴ?」カナエがわからないといった感じで聞くと、サトがマミの上で寝ているユウを顔で示しながら「この子の父親」と言った。
「ああ……ちょっと思い出した。そいつ、エキケイじゃなかった?」カナエがそう言うと、マミがぼそっと答えた。「あんたが出てってから辞めたんだよ。ジュカに追い出された」
「リョウもエキケイになるはずだったんだけど、いつの間にかオヲハに行っちゃってて……」サトが困惑した様子で言った。リョウはサトの息子で、カナエが前にここに居たときには築6のまわりでいつもうるさく騒いでいるガキだった。13歳くらいだと思っていたが、もう働く歳になったのか。
 みんなが黙ってしまったので、カナエはややなだめるように、誰にともなくこう言った。
「まあ……関係無いと思うけどね? たぶん、ジュカが怒って自分らがとばっちりを受けないようにそう言ったんじゃないの?」
「まったく、あいつらロクなもんじゃない」マミがユウの背中をさすりながら言った。
 アイとサトは顔を見合わせたが、何も言わなかった。みんなはそのまま仕事に戻ってモニターを凝視し、部屋は静かになった。
 そのまま2時間近く経つと眠っていたユウが目を覚ました。部屋中をうろうろして誰かれと服をひっぱったり膝によじ登ったりするので、またみんなの仕事が中断され、ついでのように配給品を食べながらあれこれと小さな子供の世話を焼くのだった。
 そんな中でもカナエは手早く自分のノルマをこなしていた。
「規定数、終わった」カナエがそう言って立ち上がると、アイがびっくりした顔で彼女を見上げた。「もう? 3時間で?」
「あたしだって5時間はかかるのに。相変わらずだねえ」サトが作業しながら感心したように言う。
 アイが自分の手を止めて、大きなため息をついて言った。
「あたしもカナエちゃんくらいに仕事ができれば良かった。こういう作業って苦手」
「アイちゃんは、ここのたいていのやつらより早くできてると思うけどね」サトが優しい口調で言った。
 彼女らがまた話しだしたのを無視してカナエは自分の昼食用の総合栄養ブロックと栄養ドリンクボトルを上着のポケットに押しこむと、ややぶっきらぼうに「出かけてくる」と言って部屋を出た。
 階段を使って1階に下りる。1階にはエキケイらしき男2人が部屋の中央の床に座りこんでいた。両方とも見たことがない男だ。そのうちの1人はモークス端末を頭に付けていて、カナエが来たことにも気づいてはいない様子だ。もう1人は彼女の姿を見るとニヤニヤした顔で立ち上がり、近づいてきた。
「どこに行く? 外の用事なら俺らがやってやる」
「いらない。自分で行く」カナエはそう言って近づいた男の前を通りすぎてから、立ちどまってふりかえった。「ノマって子のことは知らないよね?」
「ノマ? 聞いたことねえ……」男が言うと、すぐに「じゃあ、いい」と言って玄関に向かった。男はそれでも何か言いながら付いてくるそぶりを見せたが、カナエは足取りを早めて彼を振りはらった。
 まだ地下道経由でエキケイのたまり場に行ったが、ジュカの姿はそこに無かった。そこでたむろっていた7人の男にもノマの事を聞いたが、知ってるというものはいなかった。ここでも出て行こうとすると3人の男が「一緒に行ってやる」と付きまとってきたので、振りはらうのにしばらく時間を取られてしまった。
 しばらく地下道を歩いていると、たまり場にいた男のうちの一人がカナエを追いかけてきた。とっさに逃げようと思ったが、さすがに諦めて立ち止まり、追いつくのを待った。近づいた男はかなりの歳のようで、痩せて筋肉質ではあるが顔には皺が多く頭ははげあがっている。彼はカナエのそばまで来るとゼイゼイと息を切らしながらも早くしゃべろうと焦ってせきこんだ。
「ジュカさんから……連絡で……さっきの……」
「ノマのこと?」カナエが聞いた。
「そう……そいつが……いる場所が……」
「どこにいるって?」カナエはまたすぐに口をはさんだ。
「ええっと……たぶんだけど……ニシゴじゃないかって……」
「ニシゴ……西5のビルか。わかった。行ってみる」カナエはそう言うとさっと歩きだした。それから軽くふりかえって彼に「ありがと」と言った。
 西5の奥のビルとの連絡口に近づくとまた別のエキケイらしき男たち3人に出会った。彼らはカナエの姿を見ても誰もデレデレせずに威圧的に「何してる?」と聞いてきた。エキケイでも数少ない『真面目』なやつらだ。普段はぜんぜん仕事してるところなんか見ないのに、今日に限ってやたらとエキケイに当たる。しかも特に面倒なのに出会ってしまった。
「駅ビルで働いてんだよ。ほら、調べろ」カナエはそう言って左手を突き出した。
「だから、ここで何してるんだってんだ!」男の一人がさらに大声で威嚇した。「こんなとこにいたら危ねえだろうが?」
「あたしが何してようが、お前らはここで守るのが仕事だろ? ちゃんとやれってんだ」カナエも語気を強めてそう言った。顔を天井を向けると「お前らの仕事ぶりはカメラでCCCに送られてるからな?」と注意した。
「そっから先はカメラが無えぞ?」男の1人がバカにしたように答えた。「そっちはエキケイの管轄外だ、何が起きても知らねえぞ」
「管轄外とか、よく知ってたもんだ、そんな言葉」カナエはつぶやきながら男たちから離れて地下道からつながるビルに足を踏み入れた。気休めだが、ジャケットに入れているライナーロックをズボンのポケットに移した。
 ここは細々した飲食店が入居していた小さなビルで、荒廃が進む博多周辺ビルの中でもいち早くテナントが撤退してしまって10年以上前から廃ビルになっていた。全体的に臭い地下街のなかでもこのあたりの臭いはさらにひどい。カナエは地下1階から順にぐるぐると薄暗い小さなビルのフロアを歩いていった。右手はポケットの中のライナーロックがいつでも開けるように握ったままだ。しかし思ったよりもそこには不審者はいなかった。エキケイが近くにいるのがいちおう抑止になっているかもしれないとカナエは思った。奥に行くにつれてさらに暗く臭くなっていくなか、ほとんど真っ暗な突きあたりの空間に雑然と古い棚や椅子などが積んであり、その後ろにもぞもぞと動くかたまりのような人々がいるのが感じられた。しんとして冷たい空気の中でそこだけが生物の発する熱気で、さらに臭気が強くなっているようだった。
 カナエが近づく足音に警戒するようにその集団は全体で動き、端のほうから伸び上がってこちらをジッと見つめる目がいくつも現れた。彼らの動きにつれて腐った油のすえた酸っぱい吐き気のする匂いがただよってくる。それまで気にしていなかった寒気と湿気が急に背中を震わせた。その匂いと雰囲気にさすがのカナエもたじろぎ、すこし離れた距離から「ノマ……?」と呼びかけた。集団のかたまりは変わらずに緊張感をかかえたままこちらをジッと凝視している。30秒ほど経って、かたまりの奥のほうから「カナエちゃん?」と返す声がした。やはり、ノマがそこにいたのだ。
 さらに30秒ほどしてから奥の暗闇から一人が立ち上がり、人々のかたまりをかきわけてカナエの方に近づいてきた。目が慣れてきたのでそれらの動きもかなり見えるようになっていたが、かたまりを構成する人々のほとんどが高齢の女性のようだ。20人くらいはいるように思える。
 ふらふらした足どりでノマはカナエの1.2m前まで近づいたが、気後れしたのかそこでピタリと足を止めた。ノマの身体も老婆たちと同じような匂いを放っていたが、彼女の若さはさらにその匂いを悪いほうに強くしている。何日も身体を洗っていないのだろう、暗闇でもわかるくらい顔色が変わっていた。ノマは今にも泣きそうな顔をしていたが、カナエはなるべく明るい調子で声をかけた。
「……ひさしぶりだね」
「カナエちゃん……また会えると思わなかった……」ノマは泣き声まじりにそう言い、カナエをじっと見てさらに言った。「髪の色が違う」
「地毛が伸びたんだ。また染めるけどね」髪を触りながらカナエが言った。「……あたしも、またここに来るとは思ってなかったよ。いろいろあって戻ってきちゃったんだ。築6に戻ったらノマがこっちにいるって聞いてさ」
「あたし……仕事ができないから追い出されちゃった」ノマが言うと「あぁ……だいたい聞いた」とカナエが応じた。
「ここに来たときは動けなくてずっと寝たきりだったよ……」後ろから老婆の1人がボソボソと声をかけた。「今だってそんなに調子は良くないよ」
 カナエは2歩ノマに近づいて手を伸ばし、軽く彼女の腕に触れた。「……具合が悪いんだね。……その、お腹のほうはどうなのかな?」ノマは自分の腹に手を当てて悲しそうに首を振った。「わからない」
 今度は先の老婆より10歳くらいは若そうな中年女性が声をかけてきた。彼女は早口で声が大きい。「腹の子のことだろ? 調子がいいわけないだろうね。ろくな食べ物も無いし、環境も悪いし、医者にも見せて無いし……」
 ノマは顔を上げてカナエを見た。「あたし、築6に居た子に言われて、お金になるからって言われて……」
「わかってるから大丈夫」カナエは優しく言った。「ノマは代理母になったけど、金は払われずに仲介した子もいなくなった。相手とも連絡が取れてないってね。アイがだいたい教えてくれたよ」
「そんで、具合がどんどん悪くなって、ジュカがもう置いておけないって……」
「アイ達がだいぶかばったけど、無理だったってね」ゆっくりとカナエが言った。それからあたりを見回して「ここには配給は届いてんのかな? とりあえずエキケイは見逃してくれてるみたいだけど、住むには具合が悪そうな場所だ。といっても他に良さそうな場所も無いか……」
「エキケイは一番近くのトイレだけは使っていいっていうからなんとかなってるよ。詰まってて1つしか使えないけどね」中年女性が言った。「配給は、歩けるのは取りに行ってるけど、みんなで分けるから少なくなるんだよねぇ……」
「そっか……」カナエが言った。「こんどあたしが稼いだ分の食料を持ってくるから、みんなで分けるといい」ノマの腕にもういちど触れた。「……あたしがなんとかするから、もうちょっと待ってな」
 ノマはカナエをじっと見つめたままで、その両目から涙が流れた。
「カナエちゃんにまた会えて、すごく嬉しい」
 口を出していた女性2人以外にも、集団から立ち上がったりしてカナエたちの様子を黙って興味有りげに見ている女性たちが数人いた。ノマはそちらを見て、カナエに言った。「あの人たち、みんないい人だよ。優しくしてくれる」それからちょっと間を置き、さらに言った。「そうじゃない人は、元気が無い人。あたしより具合が悪そう……」
「死にかけが多いからね……」また先ほどの老婆が口を出した。
「男の死にかけはヤクでごまかしてるのが多いけど、こっちには回ってこないから。簡単に死ねないから、我慢して生きてるんだよ。この子は若くてちょっとアレだから、みんながついつい世話しちゃってるんだわ」中年女性がまわりに同意を求めるような調子で言った。
「そりゃありがたい」カナエが言った。
「ここは安全そうだから、このままここに居た方がいいな。あたし、また来るから」
 そう言うとノマは涙の跡が残ったままの顔でうんうんとうなずいた。
 1人カナエがビルからもと来た接続口まで戻って地下道に入ったとたん、待ちかまえていたように先ほどのエキケイの男のうちの1人が目の前にスッと現れた。まったく予期していない状態でその男がすぐ近くに来たので、さすがのカナエも動揺してとっさに動きが止まった。男はその隙に彼女の右腕を握ると彼が潜んでいたらしいトイレに彼女を力づくで引きこんだ。一瞬の出来事だった。
 トイレに連れこまれる瞬間に彼女は天井のカメラを探したが、ちょうど地下道とビルの境界で暗くなっている場所で自分たちが映っているのか定かでは無く、映っていたとしてもクシナダの警備範囲から外れた場所なのだろう。そうだからこそ男はそこで待っていたのだ。
 男が強い力でカナエの右腕を握っているのでナイフも取り出せず、ずるずると引きずられて行くしかなかった。男は激しい臭気がするトイレの奥の個室の方までカナエを引きずって行こうとしたが、彼女はとっさに手前の個室のドアノブを左手でつかむと、そのまま両手が引っ張られる勢いで両足を個室のドアに蹴り上げ、かなり無理に体をひねって足を力の限り男の脇腹に突き入れた。
 急な攻撃に男はすこしよろめいたが、相変わらずカナエの右腕をしっかりとつかんでいた。彼はムッとした様子でカナエに振り向き、右手を振り上げると拳をカナエの左耳のあたりに打ち下ろした。クシナダの防御グローブを着けているのでその拳はとても硬く、カナエの頭は痛みとめまいで金属音のようなものが駆けめぐった。鼻血も出ている気がするが、手を当てて確かめる余裕も無い。
『こりゃだめだ』と彼女は思った。ここで自分を殺しても男はごまかす自信があるからやっているんだろう。ノマはどうなるかな……と彼女は考えた。
 そのとき、急にざわざわとした雑音が耳に入った。カナエの腕を掴んでいる男の動きが止まり、ゆっくりと彼女から手を離した。カナエはなんとか自分の足で体を支えて踏みとどまり、鼻を押さえながら体を起こした。トイレの入口を見ると数人の人影があった。ざわざわした音からジュカの声が分離されて聞こえてきたが、何を言っているかはよくわからなかった。
 ジュカが自分の横にいる男たちに何かを言うと、彼らはすぐに動いてカナエをすり抜けて彼女に手を出した男の両腕をそれぞれが掴み、また彼女をよけながら男をトイレから連れ去って行った。後にはカナエとジュカが残った。
「助かった……ありがとう」カナエは心からジュカにそう言った。
「エキケイから不良品を取り除くのもあたしの仕事だ」ジュカが言った。「一緒に居た奴が気づいてチクってくれたから、良かったな」
 ジュカがエキケイの事務所の方へと歩き出したので、カナエも一緒に付いて歩いた。いつもは強気な彼女も今はジュカと一緒の方が良かった。
「ミカの件はどうだ? 少しは何かわかったか?」ジュカがそう聞いてきたので、カナエは首を振った。「いや、まだ何も……」カナエが言うと、ジュカがすぐにこう切り返した。
「オヲハを調べろ。あいつらが怪しいって言っただろ?」
 カナエは大人しく答えた。「わかったよ」
「ノマは居たか?」今度はジュカがそう聞いたので、カナエはうなずいた。
「あいつを築6に戻せとか言うなよ? あいつはノルマ未達で資格停止になったんで、あたしは関係無いからな?」ジュカがそう言ったので、カナエは小さく「わかってる」と答えた。「……ただ、もうちょっとなんとかしてあげねえと」
 ジュカはフッと鼻を鳴らした。「あいつは自分で勝手に騙されたんだ。大体あんなバカじゃ仕事は務まらねえよ」
 それからしばらく2人は黙って歩いた。それからまたジュカが言った。
「まあ、ミカをヤッた奴を引いてきたら、ノマのことはもうちょっと考えてやるよ。……おまえの友だちだもんな?」
「そりゃ、ありがたいな……」カナエは鼻を押さえながらつぶやいた。

「……つまり、《株式会社》の設立は今年の春ごろだったと」オヲハではホーランがヒロにインタビューを試みていた。
 近くにはモンタがいて、ホーランが何か言うたびに彼を睨んでいたが、ヒロがいい気分でしゃべっているので、邪魔をするのは諦めたようだ。
「そうだな。オヲハっていい名前だろ? 強そうだろ?」ヒロが得意そうに言った。
「そうですね」ホーランが同意する。調査対象の言うことは否定しないのがフィールドワークの基本である。やっとヒロとまともな会話が成り立つようになり、ホーランも嬉しいのは間違いない。
「それで、ヒロさんが《社長》で、そちらのモンタさんが《部長》。それからノブさんとヨーフィさん、今この2人は港湾地区にお出かけですね。あとはシンゴさんと、最近《入社》したリョウさん。以上で間違いない?」
「シンゴは別にメンバーじゃねえよなあ?」ヒロがモンタに向かって聞いた。
「いや、いちおうメンバーだ」モンタが言った。「エキケイをやってたヤツだから、役に立つんじゃないかって話になっただろ?」
「そうだったか?」少し不満そうにヒロが言った。「まあ、メンバーは多いほうがいい」
「みなさんは元から中洲で生まれ育ったのでしょうか? ヒロさんはどうですか?」
「俺、どこで生まれ育った?」ヒロがモンタに聞いた。
「知らねえけど、ここじゃねえと思う」モンタが言った。「ここには女がいねえし、ガキも見たことが無え。つまりはみんなどっかから流れて来てるってことだろ。俺は12のときに家出して来たけど、もとの家の場所は覚えてない。クソみたいなとこだったってことは覚えてる」
「なるほど」ホーランが言った。
「なあ、学者さんよ。あんた、グシカイのアジトにいたんだろ?」ヒロはもう10回ほど聞いたことをまたホーランに聞いた。ホーランは前と同じように返事をした。「はい、そうですね」
「グシカイには女がいるんだろ? 女はどれくらいいた? 築6にアイってのがいて、そいつがそこのアジトで育ったってな? アイを知ってるか?」
「いえ」ホーランは困惑した顔になった。ヒロの話はいつもこんなふうに飛びまわって次々にわからない単語が飛びだすので、ついて行けなくなるのだ。
「じゃあ、ジュカを知ってるか?」
「いえ、知りません」さらに当惑したようにホーランが言った。ヒロは何を言いたいのかわからないようなことばかり言ってこちらを当惑させ、気がつくと会話の主導権を握っていて、ホーランがコントロールできない方向に行ってしまう。
 ヒロはおもむろにモークス端末をつかむと、それを起動させて「おい、シンゴ!」と大声で言った。そういう使い方で上手くいくはずがないとホーランは思ったが、端末はちゃんとシンゴにつながったようで、「何?」と彼の声が返ってきた。
「すぐにこっちに来いや。話がある」ヒロが言うと「わかった……」気だるそうにシンゴが答えた。
 数十秒後にシンゴが現れると、ヒロは彼に向かって言った。
「学者さんにジュカの話をしろ」
「ジュカの何を?」シンゴが聞くと、ヒロが馬鹿にしたように答えた。
「そんくらい考えろや、このクソ馬鹿野郎が。何をじゃねえだろうが」
 シンゴはしばらく無表情に黙りこみ、それからぼそぼそと話しだした。
「……ジュカはエキケイを束ねてるんだけど……エキケイってのは駅ビルで働いてる奴らを警護してて、クシナダの下部組織みたいなもんだ。クシナダはわかるよな? そんで、エキケイはクシナダから武器をもらって、駅のあたりをパトロールとかしてるんだ。駅ビルではCCCから仕事をもらって働いてる奴らが集まってて……知ってると思うけど、あのあたりのビルは今では半分くらいはCCCの管理になってるから」
「福岡ではここ20年で天神・博多地区に展開していた通常企業の半数以上が撤退したり事業を辞めたりしてますからね」ホーランが口をはさんだ。
「で、ジュカは自分だけクシナダの誰かから《コンニャク》っていうスーツを横流ししてもらってて。マシンガンの弾もはじくってシロモノでさ。そのスーツを着てるときは誰もあいつにかなわねえ。気に入らなかったらぶっ飛ばされて終わりだ。それだけじゃなくて、ジュカはグシカイにも通じてるようでさ。そっちの方は裏でコソコソやってるみたいだけど。とにかく、あいつは勝手にエキケイや駅ビルのルールを作って、すり寄る奴らだけ目をかけて、他は追い出して。やりたい放題だよ……」
「なるほど」ホーランは目をしばたいた。
「そんな女が仕切ってんの、良くねーだろ? チェイナーの力でどうにかできねーか?」ヒロがそう言った。
「いや……さすがにそれは、私にはどうにも……」かなり困惑した様子になりながらホーランが言った。
「……じゃあ、グシカイはどうだ?」ヒロが急に話を切り替えた。
「ここに来る前はグシカイのアジトにいたんだよな? あっちで話ができるコネがあるんだろ?」ヒロは身を乗り出すようにして見すえた。
「まあ……このあいだも言いましたけど、グシカイの内部事情は研究目的で利用する以外には誰にも明かさないという約束なんですよ。フィールドワークというのはそういうものなんです。こちらでももちろんそうしますよ」ホーランは困惑しながらも慎重に言葉を継いだ。期待を持たせることはできないが、失望させて今後のフィールドワークにさしさわりがあると困るのだ。「ただ、こちらにお世話になっている間にグシカイの誰かから連絡があったときは、つないであげられるかもしれませんね」
「そうか!」ヒロはかなり嬉しそうな顔になって言った。「そんときは頼む」
「本当にそんな連絡なんてあるかわかんねえぞ」モンタが横から口を出した。
「俺、もう戻っていいかな?」シンゴも口をはさんだ。彼は部屋の入口でぐにゃっとした変な姿勢で立ったままでモゾモゾしていて、見るからに居心地が悪そうだった。
「ちょっと待て」ヒロがシンゴにすかさず言った。「学者さん、知ってるか? こいつ、駅ビルの女を孕ませて、ガキがいるんだと。エキケイは他にも女を孕ませてる奴らがいるし、グシカイにも女がいて、孕ませてるんだろ? これでなんで《人類絶滅》なんだ? まったくわけがわからねえよなあ?」そう言われ、ホーランはひっそりとため息をついた。
「ええっと……、人類絶滅予測はすこし難しい理論なので……。出生数の問題ではなく、ゲノムの問題だと言われてますので……」
「俺らが女を孕ませまくったら絶滅なんかしねえよな? 違うか?」ヒロが薄ら笑いを浮かべて言った。それを聞くとホーランはサッとヒロに向き合った。それからゆっくりと口を開いた。
「……ある意味では、それは真理ですね」学者が真顔でそう答えたので、逆にヒロがビックリした顔になった。ホーランはさらにたたみかけるように熱を込めて語りだした。
「個人的見解を言いますと、私は人類絶滅予測についてはCCCが公式に主張しているようなことよりも、もっと社会的な問題が大きいと思います」ホーランがさらに語気を強めて言った。
「ご存知のように、哺乳類では繁殖における女性の負担が大きいです。他の生物ではオスとメスの違いはただ配偶子の大きさだけですが、哺乳類ではさらに妊娠、出産、育児の負担がメスに生じます。
 オスは自分の子孫を作るコストがメスより低いので、より多くの子孫を残そうとしてオス同士の競争が起こります。競争はオスの繁殖コストですが、ヒトの場合は競争と同時に女性の身の安全を守り、生活を助けることで繁殖コストのバランスを均衡化してきたわけです。
 ……そして、文明の発達によって、男性同士の競争の性質は変化していきました。過去の繁殖競争では直接的な暴力が使われることが多く、男性たちにとってもそれは大変リスキーでした。一言でいうと文明の進歩とは暴力の減少なんです」
「……暴力って減少してるのか?」モンタがつぶやくと、ホーランはすぐにこう答えた。
「そう、つい最近までは。繁殖競争は暴力から商業主義的経済圏における活動に置きかわった。統計的にいえばそのようなフィールドにおける男性の経済力と繁殖力は相関していた。これが人類社会で古代から近代に起きた変化でした。
 しかし機械化とグローバリズムによって、このような経済活動のバランスが急速に壊れていった。また男女同権という概念によって女性も男性と同様の経済活動に参加するようになり、商業主義的経済圏は男性たちが繁殖のために競争するフィールドであるという生物学的前提が崩れていったわけです」
「何を言ってるのか、わからねえ……」ヒロがつぶやいた。
「そうそう、人類絶滅予測についての話でしたね、すみません」ホーランがあわてて言った。
「結局、哺乳類においては男女の繁殖コストに大きな差があり、その差が男性同士の競争を生みます。人類文明は競争を暴力から経済活動にシフトさせましたが、さまざまな要因で経済活動に限界が来ています。男性は生来的な欲求によって繁殖に向かうようにプログラムされていますが、女性にはその必要がないので同じようにはプログラムされていません。
 人類も動物の一種であり、生活の損得を共有する集団となり、集団同士は環境資源の利益をめぐって争っているので、繁殖に関する争いは集団同士の争いとなります。この争いにおける勝利は繁殖の勝利であり、その争いにおいて……暴力であれ経済であれ……男性は女性よりも主体的な立場にいることで、繁殖におけるコストのバランスを保っていたわけです。
 しかし、科学技術の発展により経済活動の中身は機械に代替されるものが増え、人類は知的活動によってそれをさらに発展させることで個人の利益を追求するようになると、男女差というものが薄れることにつながりました。また暴力抑止や経済の格差の解消のために法律や社会福祉などが発展したことも生活における男女差を埋めることにつながります。グローバル化と情報社会は集団間の争いのコストをシミュレーションするので、これもまた抑止の方向にむかいます。それらは個人1人ひとりの生活という面においてはすべて良いことなのですが、結果として女性にとって男性と一緒にいる必要性が薄れたので、自然がプログラムした繁殖欲求のバランスが崩れることになったわけです。
 私は、人類絶滅危機はゲノムの問題という以前に、このような社会の問題としてとらえるべきだと考えています。だって、明らかに目に見えて起こっていることですよ?」
 ホーランがここまで一気に喋ってからまわりを見わたすと、ヒロとモンタとシンゴがなんとも言えない顔で彼を見つめていた。ホーランはフィールドワークを始めてから何度も感じた気持ちをまた思い出した。
 ……またアウターに無駄なことを話してしまった。彼らにはこのような話をしてもどうせ理解できないのに。
 しかしホーランの考えに反して、モンタはこの話をある程度は理解したようだった。彼は言葉の洪水のような流れを頭の中で整理するようにしばらく黙っていたが、やがてホーランに向かってやや敵対的な態度のままでこう切りだした。
「今のおまえの話さ……要は、男は女を欲しがってるけど、女は男を欲しがってなくて、昔の男は女を守ってやったりしてたから女から必要とされて繁殖できてたけど、今はそうじゃないってことだよな? 違うか?」
 ホーランは本気で感心してモンタに答えた。「そう、その通りです。あなたは理解力がある」
 モンタはさらに怒気を強めた表情になった。ホーランの言葉がいちいち彼らアウターを卑下しているように感じるのだろう。しかし今は彼の生来の好奇心が感情を上まわって議論にかりたてているようだった。モンタはさらにこう言った。
「……でも、女だって男がいなきゃガキ作れねーじゃねーか? なんで男だけ女を欲しがるようになってるんだ? お前が言った《自然のプログラム》ってのがおかしいんだよ。生物はぜんぶ繁殖したいようにできてるんだろ? 女も男を欲しがるようになってなきゃおかしい」
「それはですね、先ほどもすこし言及しましたが……」ホーランは限定的ながらもこの場で自分の話が理解されたことが純粋に嬉しかった。さらに、もともと律儀な性格なのでモンタの疑問にも丁寧に答えようとつとめた。
「哺乳類における繁殖のコストには男女差が有ると言いましたよね? ……たしかに、この部分の説明をしていませんでした。すみません。
 先ほども言ったように、有性生殖における男女差とは配偶子のサイズの差です。精子は染色体とわずかなタンパク質で構成され、卵子は生物の発生に必要なさまざまな要素を持っています。個体は自己の生体維持に加えてこれらの生殖物質を作るのにコストを払うので、子孫を1体作るための配偶子だけでも男女の必要コストには差があります。
 哺乳類ではこの差がさらに広がり、女性は子宮内で受精卵を成長させて出産するうえに、さらに母乳を与えて育てるわけです。ヒトでは妊娠期間が10ヵ月、授乳期間は最長で3年ほどに及びます。女性はこの期間中は次の繁殖ができません。授乳が終わってからも子供を成体にするまでには保護や世話をする必要があり、基本的には女性がそれを行います。男性は原理的にはその間に複数の子孫を作ることが可能ですし、実際により多くの子孫を作るように行動する個体が増えていきます。ヒトの男女比は同数なので、一部の男性だけでもより多くの女性と子孫を作ろうとするものがいると、男性全体での女性の取りあいが起こります。結果として男性間の繁殖競争が起こります。これは《性淘汰》と呼ばれる現象ですが、性淘汰は女性が男性を選り好みするものと、今言ったような男性間競争によるものがあります。どちらも同じような原理で方法がすこし違うだけです。
 男女という性別があって生殖コストが違うだけでこのような現象が発生し、生物学的に男性は生殖に向かう強い欲求を《持たされる》ので、基本的には女性が何もしなくても男性がアプローチしてきます。そのようなわけで、女性は男性を求める行動をほとんどしません。欲求するプログラムが《ゲノム》に含まれて無いんです。
 人類社会が発展する前まではこのような生物学的プログラムがうまく機能していたのですが……」
「あー! もういい。何言ってるかぜんぜんわかんねえ。うるさいから止めろ」ホーランがまだ話しを続けようとするのをイライラした様子でヒロがさえぎった。ホーランは黙ったが、口をポカンと開けてヒロとモンタを交互に見ながら、声にならない様子でこう言いたげにしていた。『でも、モンタさんが、説明を求めていたので……』
 しばらくみんなが沈黙したあと、話を聞いている間も変わらずにホーランを睨むように見ていたモンタがぼそっとした声で言い出した。
「……おまえら、ヤクを混ぜてんだろ?」
「は??」ホーランが聞き返した。アウターときたら、さんざん話をしても場違いな返答ばかり返してくる。本当に疲れる、と彼は(瞬時に、無意識に)思った。
「おまえらCCCが配ってる食料だよ! 配給には男用の避妊薬が入ってるって噂なんだよ。だからガキができにくいんだろ? 俺たちにはガキを作らせたくねえんだ」
「モンタはオールド・ネットで情報を集めてるから、本当のことをよく知ってんだよ」ヒロが得意そうにホーランに言った。「ってのに、おまえらチェイナーはわけわかんねえ嘘ばっか言いやがって。俺らは全部わかってんだよ!」
「あの……ですね。統計的には……」ホーランは部屋を見渡し、誰も発言の邪魔をしないか確認するようなしぐさをしてから言葉を継いだ。
「CCC内よりもCCC外部、つまりアウトの方が妊娠率が高いんですよ。アウトでも都市部の妊娠率は低いのですが、地方では過去50年間の平均水準より上向いています。経済の荒廃により安価な娯楽が激減したことが原因と言われていて……」
「……俺、もう戻っていいかな?」唐突にシンゴがホーランの話をさえぎった。彼はいいかげん前からこの部屋から離れたいと機会をうかがっていたが、ホーランが話しだすとどこまでも話が続くので、ここで止めなければと思ったのかもしれない。ホーランはため息をついた。今日も結局、ヒロとモンタからうまく話を聞き出すことができなかった。彼は誰にともなく言った。
「じゃあ……私も、もう戻りますね?」

[フィールドノート]
 今日はオヲハのリーダーであるヒロとサブリーダーのモンタへのインタビューを試みた。
 彼らはCCCとその所属員である私のような研究者に対しては強力な敵対心を持っており、CCCに関するさまざまな陰謀論的なデマも信じこんでいるため、対面して話をするのはかなりの努力を要した。
 それでもヒロは私がグシカイの天神のアジトに居たことを評価しており、わずかではあるが彼から自主的に話を聞き出すことに成功した。
 ヒロの年齢は27から31歳の間で、10歳前後で元の家族と離れて福岡旧都市圏に流れ着いた。以前の家族については記憶があいまいであるが、両親と兄がいたらしく、彼に対して父親と兄からの暴力があったようである。彼によれば「あまりまわりの奴らとはつるまずに」生きてきたらしいが、性格が自己中心的なので結果的に個人行動になってしまうのだと思われる。20歳を過ぎてモンタと出会って意気投合してからは主にモンタによる仲間づくりによってグループ活動をするようになり、オヲハ結成に繋がった。
 モンタの経歴もヒロと似たようなものであるらしいが、ヒロ以上に私に対して心を開かないので、彼についてはほとんど何も情報を得ることはできていない。
 私に対して特に拒否的態度を示しているモンタだが、彼も都市アウター的な陰謀論にまみれた思考をしているものの、持って生まれた知性には明晰なところがあり、私の話を理解してするどい指摘をするなど、この場所ではさまざまな知的レベルの人間が1つの共同体として暮らしている状態であるようだ。
 ヒロはどうも《女性》に対する執着が強いようで、グシカイへの興味も根本には女性への欲求がうかがわれる。私が博多と中洲で事前調査をしている時に出会った人々は、どちらかというと自分の生活で手一杯という感じで、異性への興味という部分においてはあまり見られなかったように思えるので、ヒロの性向は興味深い。現代社会における男女関係は私自身の研究テーマでもあり、これから調査を深めてさらに彼らの生殖活動について追っていきたい。
 アウトにおける男女の生活形態の概要を書いておくと、過去の大戦前後にあった日本特有の家父長的生活体系(男は外で働き、女は家で家事と育児をする)は20世紀から21世紀にかけてのグローバル資本主義的社会への変化で消えていき、男女共同参画社会とうたわれた欧米型社会へ変わった。これはおよそ世界共通の現象であるが、その過程で婚姻数が減少し、急激な少子化へとつながった。
 男女共に一生独身であることで《一人暮らし》世帯数が大幅に上昇。2040年代には一人暮らし形態が男女が子供を作り共に生活するという《家族暮らし》形態を超えた。
 それでも男女は共に企業で働くという部分で社会の中で接点を持っていたが、2051年の人類絶滅予測にともなう壊滅的な世界経済の混乱が起こり、企業の倒産、流通の破壊、暴動などにより毎日会社に出社して仕事をするという《サラリーマン》生活形態が激減した。
 もともと悪化していた日本における貨幣経済がこれによって壊滅。《円》資産は無価値となった。
 港湾や都市部の治安が悪化したため、人々は自宅にこもって配給品でしのぎ、ネットでのデジタルワークに参加することでわずかな経済活動を行うこととなった。
 これにより、男女の生活形態も少しづつ変化し、男女ともに賃貸住宅の家賃が払えないので親元に戻る動きが起きた。また、安定した生活と支え合えるコミュニティを求める人々によって地方(都市周縁部)へと移住する大規模な流れが起きた。コミュニティに参加する能力が低いなどの理由で行くあてが無く都市部に残った人々の一部はビル等を占拠する不法滞在者となり、ヤクザなどの反社会性集団やその支配下に入る形で暮らしているものが多い。
 また男女ともに身の安全をはかるため、CCCが提供する職場兼住居(多くは都会の既存ビルを整備したもの)にて請負いのデジタルワークに従事するものもいるが、彼らは男女別のグループとして生活している場合が多く、生活のほとんど全てがビル内部で完結しているので別のグループとの交流などは存在しないようである。
 ただしすべての場合においてCCCが提供する仮想ネット空間《モークス》内で交流するという方法は存在しているが、別の社会学者の研究によると、ネット上でも人々は他者との交流を避ける傾向があり、多くのユーザーが自分とAIアバターのみで過ごしているということである。
[日時:2075年03月09日19時31分、記述者:ホーラン・ジン]

 バーバラとニナヤはお互いのレポートの進捗具合を報告するためにまたモークスのカフェテリアに集っていた。彼女たちにとっては一種の息抜きのようなものでもあり、同じような指向を持った学生としてのおしゃべりはお互いに意義を感じるものでもあるのだ。
 室内にはフィッツジェラルドとアームストロングの有名なジャズ曲『Summertime』が流れていた。バーバラはこの曲には聞き覚えがあった(たぶん父から教えられた)ので、無意識に歌声に耳が引き寄せられたが、ニナヤが話しだしたのですぐにそちらに意識を向けた。
「あなたの変なテーマ、過去論文は集まった?」ニナヤが皮肉を込めてバーバラに聞いた。
「まあね……実際のところ、過去論文を見つけるのはすっごく大変だった」バーバラはやや残念そうではあるが正直にそう答えてから、話を始めた。
「陸上の動物で、爬虫類と哺乳類と鳥類にはペニスが進化していて、同一の起源があるってのは講座にもあったよね。
 オスのペニスにくらべて、動物のメスの生殖器は形状や位置関係にかなり多様性があって、受精卵から発生する過程についてもバラツキがあるんだよね。
 しかも、動物の生殖器の研究では、ペニスは観察しやすいから研究論文も昔からそこそこあったりするんだけど、メスの生殖器については観察しにくくて、あまりヒト社会にとって重要でも無いって思われてたから、ぜんぜん研究が進んでなかったみたいなんだよね。それに、なぜヒト女性にオルガズムがあるのかっていう学術的論争はずっとあるんだけど、いろんな要因で研究が進んでなくて……
 まあ、なんとか探し出した論文をまとめると……」バーバラ自分のノートを表示して見せながら話を続けた。
「……まずは、クリトリスってそもそも何? ってとこから。クリトリスは学術的には陰核亀頭と呼ばれ、陰核という器官の先端部分に当たる。ヒトの場合、陰核亀頭だけが女性の膣口の前の部分に露出していて、陰核のそれ以外の部分は体内で2つの帯みたいに分かれていて、膣口のやや内側の膣を取り巻くような形になっている。
 起源的には、陰核は陰茎(ペニス)の相同器官である。陰茎は体内受精のために進化したんだけど、そのグランドデザインは男女関係なく作られる必要があった。
 講座にもあったけど、体内受精は乾いた陸上に進出した動物にとっては重要なもので、本当は精子を周辺にバラまく方がオスにとってはずっと都合がいいんだけど、陸上で確実にメスに精子を届ける方法の一つとして体内受精が進化したわけよね。
 それで、体内受精をする動物のメスには成熟した卵子を受精前に準備する《排卵》があるわけだけど、排卵には《自然排卵》と《誘発排卵》の2種類がある。誘発排卵は精子が体内に送りこまれたときに排卵するもので、こうすれば受精の可能性が高まるわけ。成熟卵子には寿命があるわけだからね。
 それで、誘発排卵の場合は、オーガズムが誘発要因として必要なわけよね。精子の射精と同じメカニズムだ。だから誘発排卵をする種にとっては交尾のときにオーガズムに達して排卵するっていうシステムが合理的だし、そういう種の場合は陰核亀頭が膣内に配置されている傾向が高い。
 で、自然排卵の場合は季節ごととか、個体の状態によって排卵時期が決まっていて、自動的に排卵するって形式なんだけど、ヒトもこっちに含まれる。自然排卵型の動物は陰核亀頭が膣から離れた場所にあることが多いみたい。
 つまり、陰核亀頭の位置は排卵様式と相関してるってこと……らしい」
「……なるほど。もう結論が出たね。レポートが早くまとめられて羨ましい」ニナヤがやや皮肉めいた口調であっさりと言った。
「いやいや、ちょっと待ってよ。まだ調べたことが他にもあるんだから」バーバラがあわてて言った。
「……メスの生殖器全体で見ると、解剖学的には子供や卵を生むための膣口と尿道口がつながった管を持っている動物と、つながらずに別の穴になっている動物に分けられるんだよね。つながってる場合は共同になってる管部分を泌尿生殖洞 (UGS)っていうんだけど、UGSがある形のほうが祖先形らしい。
 で、UGSがある場合、陰核亀頭は尿道口の下あたりに突き出てることが多いみたい。ただし、動物のメスの性的快感について真面目に調べるなんてとても難しいから、その形質にどんな意味があるのかまでは突き止められていない。
 動物のオスがセックスのときにどれだけ性的快感を感じてるのかについては、熱心に調べた研究者がいたみたいだけどね」
「男性研究者でしょ、それは」ニナヤが口を出すと、バーバラが「たぶんね」と同意した。
「パブリチェフたちの2022年のメタアナリシス論文が詳しいんだけど、メスの生殖器の進化多様性はオスのそれよりも高くて、子宮や卵巣よりも膣やクリトリスやUGSの変化が大きいようなんだよね。それってつまり、メスの外性器は性淘汰の影響を大きく受けているってことじゃない? だから、ヒト女性のクリトリスについても、何か固有の進化の影響があるって考えてもいいんじゃないかな?」
 ここまで話すとバーバラはやや興奮した様子になり声が大きくなっていたが、ニナヤは首をすくめると冷静な様子で言葉を返した。
「そうかもね。でも、そうじゃないかも。《男性の乳首》について言われてることを知らない?」
「知ってるよ、それくらい……」さきほどの盛り上がった様子はどこへやらで、バーバラは今度は意気消沈した様子になってしまった。それを見たニナヤは少し優しい口調になって言った。
「でも、講座のレポートとしては十分な内容だと思うけど? ちゃんと内容を詰めて書けば認めてもらえるよ、きっと」
 そう言われてバーバラは少し不満そうな顔をしたが、諦めた様子で言った。
「……そっちの壮大なテーマはどうよ? まとまりそうなの?」
「そりゃあ当然」今度はニナヤが得意そうに話しだした。
「まず基本として《性》は個体が自己複製をしつづけるとゲノムの複製エラーによって機能停止しちゃうから、リフレッシュするためにやるんだってことでしょ。そうは言っても自分のゲノムの一部分を適当に編集してたら、それこそ危険で機能停止しちゃうから、分離された《編集専用のゲノム》を使うシステムが進化の早い段階から存在してたってことだよね。
 原核生物の場合は細胞内に環状ゲノムとプラスミドという性専用のゲノムが分かれていて、プラスミドを持つ個体と持たない個体が接触すると、プラスミドが持つ個体から持たない個体へと移動する。これを《性》と呼ぶかどうかは研究者によって意見がバラバラだったけど、最近ではこれも《性》に含めるという見解が主流になっている。つまり《性》は個体の《自己複製》と対峙する概念で、他個体との接触による個体ゲノムの編集現象のすべてを表す」
「そんなのわかってるよぉ、講座の最初の方でやったんだから」バーバラが不満そうな声のままで言ったが、ニナヤは気にとめない様子で話を続けた。自分のレポートのテーマにすっかり夢中になっているようだ。
「……で、25億年前頃にシアノバクテリアによる《大酸化イベント》が起こって、地球の海と大気の酸素濃度が急上昇した。そして、進化上でたぶん2回めの大絶滅が起こった。そんな中でアルファプロテオバクテリアの一種がアーキアの一種に取りこまれて《ミトコンドリア》になったことで真核生物が誕生した。真核生物の起源において最初にミトコンドリアが取りこまれたという説は1980年代から2020年代までのゲノム系統解析によってほぼ確実になった。
 それから真核生物のゲノムが《核膜》に覆われる《核ゲノム》化が起きた。ゲノム専用の場所が区切られたのをきっかけにアーキアやバクテリアと比較してゲノムの塩基数が何倍にも増え、タンパク質をコードする遺伝子以外の、それをコントロールするエピゲノムの部分が急増した。
 ミトコンドリアが作るエネルギーと核ゲノム化によって増えたゲノムによって真核生物の細胞内にさらに組織的な細胞内小器官が発生した。もともと1対だったゲノムが複製後に分裂せずにくっついたままでいたものがやがて二倍体生物になり、その二倍体の細胞が正しく複製されるために《有糸分裂》が進化した。通常は二倍体の状態で自己複製を繰り返し、生殖をするときには一倍体の配偶子を作って他個体の配偶子と融合させるという形でのゲノム交換システムが進化した。
 もともとは二倍体の真核生物が作る配偶子のサイズは均一で、いわば一倍体の祖先形の自分と同じものを外部に送り出して、他の一倍体の他者と融合させて新しい二倍体生物を作るっていう《性》のシステムになっていったわけね」
「……そういえば、子供の頃パパにギリシャの哲学者のプラトンの話を聞いたんだけど、『ヒトは大昔、2人のヒトが背中合わせにくっついた状態が普通だった。でも彼らが傲慢にも神々に戦いを挑んだために、ゼウスによって半分に切られてしまい、それからは自分の残りの半分を追い求めて生きるようになった。それが愛の起源だ』っていうの。なんかその話に似てない?」バーバラが楽しそうな様子で急にそう口をはさんだので、ニナヤは話を止めて少し考える顔になったが、結局は何を答えるでも無く、また自分の話を続けた。
「……それで、一倍体と二倍体の周期的な生殖システムができると、今度は配偶子のサイズにブレが生じるようになった。真核生物はアーキアとバクテリアの共生から始まった新しい生物の形態だけど、結果として細胞質の大型化や複雑化につながったわけよね。そうすると生殖システムで作られる接合子も大型化することになる。ハンシェンらの2018年の論文によると、接合子の大型化は配偶子のサイズが極端に大きなものと小さなものに二極化することにつながるらしい。そして、配偶子のサイズの違いの二極化、つまりは異型化と真核生物の多細胞化が相関関係にあるらしいことがわかった。
 そして、最初は同じ細胞の集合体から始まってだんだんと細胞の機能分化が起こり、いろんな機能や形態を持った多細胞生物へと進化していった。それと同時に異型化した配偶子は《精子》と《卵子》となり、接合子は《受精卵》となって、生殖システムと個体の形態が連動して《オス》と《メス》に分かれた……」
「うんうん、めでたしめでたし」バーバラが軽く拍手して言った。「壮大な物語、ここに完結する」
「いやいや、ぜんぜん完結してないから!」ニナヤは真面目な顔でバーバラのちゃかした反応を否定した。
「今のはぜんぶ過去論文の引用だし。あいまいなところもいっぱい有るし」
「そう? でも、結論出ちゃってない?」バーバラが言った。「ミトコンドリアの共生やらなんやらで体制が複雑になった真核生物がなんとかセックスしようとして一倍体の配偶子を接合させて二倍体生物になった。配偶子のサイズに多様性が出てきて、最終的にはすごく大きいのとすごく小さいのに二極化した。単細胞の真核生物が多細胞生物に進化する過程で大きい配偶子が卵子になり小さい配偶子が精子になった。配偶子の二極化が進んだ種ほど多細胞化も進んだってことだよね? それで、生殖システムは多細胞の機能分化にも影響して、卵子を作る個体をメスに、精子を作る個体をオスになるようにしたってことでしょ?」
「そうなんだけど……でも、この説明には、有性生殖に関するもう一つの大きな問題が入ってない」
「へえー? 何の問題?」バーバラが聞いた。
「ミトコンドリアだよ」ニナヤがそう答えた。「講座でやったでしょ? ミトコンドリア競合説。……そこも寝てたの? しょうがないなあ……
 生物にとって《性》が必須であることについては研究者たちの意見は一致したけど、なぜ《オス・メス》という性別が存在するのか、要するに多細胞生物の配偶子が精子と卵子に分かれるのかについては、その要因がずっとはっきりしてなかったわけ。
 それで、1980年代ごろから、性が2つに分かれるのはもともと外来生物だったミトコンドリアが配偶子の融合で混ざったときに殺し合うからではないかという説が出てきた。知ってると思うけど、ミトコンドリアは真核生物の細胞内小器官として取りこまれてから、進化の過程で自分が持っていたゲノムが核ゲノムに取りこまれていったんだけど、疎水性の関係とかで一部のゲノムはミトコンドリアに残ったままになっているでしょ。だからミトコンドリアにも独自の自己複製と性の問題があるってわけ。ミトコンドリアにとっては自分が住む細胞は国みたいなもので、国内で自分の身内をちゃくちゃくと増やしてたわけじゃない。それなのに急に国が移動して他の国とくっついて、他国の見知らぬ奴らが流入してきた感じだよね。だから身内じゃない奴らとは殺し合いになる。
 でも、ミトコンドリアの殺し合いは核ゲノムにとってはせっかく作った子孫が無駄に死んでしまうことにつながるから、それを防ぐことが利益になる。だから核ゲノムの適応的な変異によってミトコンドリアを次世代に伝える卵子と、伝えずに皆殺しにする精子の組み合わせで繁殖するようになった」
「あー確かに、そんな話をしてたっけ。……でも、配偶子のサイズの二極化とミトコンドリア戦争の防止は結局はどちらも核ゲノムにとって自分の生き残りっていう利益につながるわけだし、両方の要因があってそうなったってことで問題無くない?」
「そう……なんだよね……」バーバラの意見に、ニナヤは珍しく反論せずにそれだけ言って考えこむ様子で押し黙った。
「じゃあやっぱり、めでたしめでたしじゃん。……それで十分レポートを埋められるだけの内容になるんじゃないの?」バーバラが言うと、ニナヤは自分の顎に右手のこぶしを当ててテーブルの上をにらんだまま「んー……」とうなった。しばらくそうしてから、どこか決然とした様子で顔を上げると、「でもっ!」と大声を上げた。
「……でも、なんか変だと思わない?」ニナヤがバーバラの顔をじっと見つめて言った。
「過去の研究によると、ミトコンドリアは細胞内で自己複製して増殖するんだけど、独自に持つゲノムの変異率が高いらしいんだよね。突然変異は悪い影響を及ぼすことが多いから、そのままだとミトコンドリアは機能停止して、細胞にも悪い影響があるよね。で、どうするかというと、機能が落ちてきた細胞内のミトコンドリアはお互いに融合して1つになるんだって。そうするとゲノムの悪い変異が補われて、マトモなミトコンドリアとして機能回復することがあるらしい。……そういうことができるなら、配偶子として接触した別のミトコンドリア集団とも融合できなかったのかな? 少なくとも、そういった方向に進化した生物がほとんど残らなかった理由はなんだろう?」
 ニナヤがそこまで言うと、バーバラはテーブルの上に2Dビジョンを表示して、何やら検索を始めた。しばらくすると「……あー、有った有った、これだ。ミトコンドリアの両親遺伝が有る生物は一部いて、パン酵母では受精後しばらくの間は両親由来のミトコンドリアが細胞内で共生するけど、だんだんと片親由来にかたよっていく。二枚貝のある種でも両親遺伝が起こるけど、体細胞で使われるのは母親由来のミトコンドリアだけで、父親由来のものは生殖細胞に入って将来の繁殖に備えるって……なんか父性ミトコンドリアの生き残りに対するすっごい執念を感じちゃう!
 ……でも、やっぱり結局は、両親のミトコンドリアは細胞内で混ざることも、体細胞のそれぞれで住み分けることも無理ってことだよね……」バーバラはそう言ってビジョンから顔を上げ、しばらく考えてから、言った。
「……それって、ミトコンドリアの祖先がバクテリアなことが関係するんじゃ?
 バクテリアはプラスミドを持ってる個体が持ってない個体の近くにいるときだけプラスミドを受け渡すっていうのが《性》の形式でしょ。ミトコンドリアは当然プラスミドは持ってないから、プラスミドでは無い部分のゲノム同士は混じり合え無いってことじゃない? 同じ細胞内のミトコンドリアゲノムが融合するのは持ってるゲノム配列が近いからできることなのかも」
「……なるほど……たまにはいいことを言うね」ニナヤが考え深そうに言った。
「……まあ、〆切までもうちょっと時間があるから、もっと考えてみる」
「だね! 私ももうちょっと調べて考える。……また次も話し合おうよ」すっかりいつもの明るい顔に戻っていたバーバラがそう言った。
 モークスでのニナヤとのレポートについて議論した日の夜、ベイルートCCCのいくつもある食堂の一つでバーバラは彼女の父親と連れだって夕食をとっていた。
 バーバラがここに住む資格は共に研究者である彼女の両親がそれぞれに獲得したものだが、母親はバーバラが幼い頃からあちこちのCCCや外部の研究所を飛びまわっていて、ここに居る時間は少なかった。CCCでは研究者の親と子供は各自の部屋で独立して暮らし専門家が育児や教育を担当するので、父親もそれほどバーバラの子育てに手をかけるということは無かったが、それでも長い間バーバラの精神的養育は父親が担っていた。
「……そういえば、性淘汰についてのレポートを書くんだっけ? 進んでる?」とりとめのない楽しい会話が一段落したタイミングで、父親が彼女に聞いた。
「まだまだ、全然」バーバラはそれまでの上機嫌から急に不機嫌そうな口調になって言った。「私のテーマは過去の研究事例が少なくって……」
「何のテーマだっけ? 聞いてなかったよね」父親が聞いた。
「えっとお……」バーバラが言いよどんだ。父親に『ヒト女性の陰核亀頭の位置の進化的意義』をテーマにしていると言うのはさすがに彼女でも気恥ずかしかった。実際のところ、知ろうと思えば両親は彼女の学習状況の詳細をいつでもすぐに確認できるのだが。父親は彼女のその様子を見ると、さりげなく話題を変えた。
「それはそうと、パパも今度ベイルートCCCを離れなきゃいけなくなったよ。バーバラを一人にして悪いけど。2ヵ月くらい留守にするかも」
「そうなんだ? 何するの?」パッと上げた顔をテーブルを押す勢いでぐいっと前に出してバーバラが聞いた。
「隕石の調査に行くんだよ。サハラ砂漠に隕石が落ちて、2kmのクレーターができただろ? それの調査」
「あれか! 大事件だったよねぇ。いいなぁ、私も行きたいなあ……」その声は食堂に響きわたるのではないかと思うほどはずんでいた。
「バーバラはまず大学生にならないとね。大学生だと研究プロジェクトへの参加も可能になるし……」
「残存有機物の調査をするんでしょ? プロジェクトリーダー?」彼女は目を輝かせて父親に聞いた。
「有機物調査はあるけど、プロジェクトリーダーじゃないね。今回はまだ総体的な調査だし。それにパパはママと違ってリーダーになるような立場じゃないし」
 バーバラの母親は新しい分野であるモークスのシステムを利用した集団心理研究の第一人者で、すでに社会神経学の権威である。彼女は非ゲノム研究者ではあるもののヒトの集団心理は人類絶滅研究と共にCCCが担う社会運営の重要なパートを担っていると見なされており、常に世界中の研究者が参加する複数のプロジェクトを率い、本人の気質もあって世界中のCCCを飛び回ってメンバーを指導・統率し、組織の運営方針にも関与しているのだ。バーバラはそんな母親をとても尊敬していた。父親の専門である宇宙生物学も21世紀の重要な研究分野であり、生命の起源に関わる問題であるものの、人類絶滅研究を第一義とするCCCのシステム上では若干扱いが悪くなっている感は否めない。バーバラは自分がうっかりと失言してしまったことに気づいてフォローしなければと思った。
「そっかぁ。そう言えばこのあいだママがプロジェクトは全てのメンバーが自分の役割を全うすることが大事なんだって言ってた。だからリーダーじゃなくてもぜんぜん問題無いね」
「もちろん、その通り」父親がそう答えたので彼女はほっとした。
「そうやって一人ひとりが役割をこなして、プロジェクトが上手くいって、研究が成功して、科学が発展するんだって」バーバラがさらに母親の言葉を思い出して言った。
「本当にそうだな。さすがはママだ」軽い調子で父親が言った。
「だよね。本当にママはすごい」めいっぱいの尊敬と同意の気持ちをこめてバーバラが言った。それからまた父親についても何か言う必要を感じて、こう言った。
「パパの調査結果もすっごく楽しみ。何かわかったら絶対に教えてよね!」

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