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感情と政治

2015年9月22日 facebook投稿

ニュース番組で聞いたSEALDsのメンバーの話で大変感心したことがあります。スピーチで特に決めていることはないけれど、「話をしているときに、泣かない」ということだけはルールとしているそうです。

政治は「感情」に訴えると碌なことはありません。右でも左でも同じです。半藤一利さんはずっと「国民が熱狂して戦争の泥沼に入っていった」ということを主張しています。政治も悪いし、メディアも悪いのですが、もうひとつ「熱狂」が悪いんです。喜怒哀楽のなかでも「哀=涙」というのは強烈な伝染力があって、さらに「涙→同調圧力→敵探し→怒り」という人間の感情の流れがあります。私的な空間では大いに感動してもいいのですが、公的空間に「涙」を持ち込むと冷静な判断力がにぶるとともに、冷静さへの「排除」が巻き起こります。戦争中は「非国民」「敗北主義者」と言われたことでしょう。

その点で内田樹さんの以下の話はまったく同感です。そういう熱狂が起きる前に、「そうならないようにしておこう」というのは合理的な判断です。
http://blog.tatsuru.com/2015/09/22_0853.php

<自衛隊員に死傷者が出たあと、おそらく日本のメディアは死者を英霊にまつりあげるでしょう。そして、「このように危険な派兵に大義はあったのか?」という常識的な責任論を語るものの声を「死者を犬死にさせる気か」というヒステリックな絶叫が黙らせることになるでしょう。米国のような言論の自由な国でさえ、9・11後はそれまで低迷していたブッシュ大統領の支持率が90%にまで跳ね上がり、政権批判がほとんど不可能になりました。日本なら、その程度では済まないでしょう。「派兵に大義はあったのか?」と問う者は「非国民」、「敗北主義者」と罵られ、石もて追われることになる。私はそう予測します。そして、安倍政権はまさにそういう状況の出現を期待して安保法制の制定を急いだのだと思います。>

感情の政治というと、雑駁な議論ではありますが、往々にして国家主義者は「涙」から入って「怒り」を引き起こそうとします。人間心理としては「涙」から入るほうが、残念ながら強いものです。でも「涙」から入る政治はたいていは碌なことになりません。SEALDsの若者たちは、意識的か無意識的にそれを分かっている点で感心をしたというわけです。

一方で、市民に足場をおく人たちは「怒り」から「怒り」を広げようとします。こちらにも実は問題があるように思います。21世紀のデモがかつてと違っているのは、喜怒哀楽でいえば「喜楽」(ラーメン屋じゃないですよw)を入り口にしている点だと感じました。「哀怒」は極端に言えば「死」をベースにしてます。一方、「喜楽」は「生」をイメージしています。「死と涙」に人々が熱狂するような状況が訪れるのが最もいやなことです。メディアが内田樹さんが言うようなことになるのは、絶対に避けられないことはよく分かりますので。

付け足しで、平時でも人に嫌われることを言いますが、やたらと「感動した」とか「勇気をもらった」とか言う人は苦手です。深いところで感動したのでなければ感動とはいえないし、感動の安売りは単なる「消費行動」でしかないからです。

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