魔法

キュッキュッ、と摩擦音と、恐らく摩擦熱だけではない熱気、ボールの弾む音、体育館、朝から晩まで毎日体育館、息苦しいほどの夏の圧迫感。気分が悪い。ふと、ねえ、と声がした。無視して薄目を開けたまま適当に手を叩いていると、
「おい、お前だよ。桐朋の5番」
怠そうな声のする方を見ると、人懐こそうな猫背の男が俺に話しかけてきていた。まさに今俺の高校が目の前で戦っている、市川高校の長袖ジャージを着て、律儀にもジップを一番上まで上げている。当たり前だけどジャージなんか誰も着てない、萌え袖がどうにも暑苦しくって、見ているだけで気絶しそうだ。
「……あ、俺?何?」
「見てたぁ?今のシュート、本気かな?」
ニヤニヤしながら彼が俺に近づいてきて、肩をこつんと当ててくる。
「ごめん、何?誰なの、お前」
「市川のバスケ部の、端くれだよ」
「それは見りゃわかるよ」
「じゃ、何が聞きたいの。」
含み笑いをしながら俺を見る。ジャージに書いてある「本田」という文字。もしかして市川高校の本田創丸?それなら関東の私立高校強豪男子バスケ部員ならまず知っているであろう、というぐらい、有名な強敵だ。
「お前強いだろ。試合出ないのかよ?」
「おれぇ?暑くて調子悪いから、やだ。」
「はぁ?」
だったら涼しそうな顔で長袖ジャージなんか着てんじゃねえよ。そんな言葉が出かかって、飲み込む。
「見ただけで俺が強いってわかったの?手とか、体とかでわかるってこと?探偵じゃん。」
「そんなわけないだろ。アンタのことは元々知ってる」
「ふーん。俺はお前のこと知らないけど見たらわかるよ。お前は雑魚。器用だろうけどこの調子だとこの先3年間ずっと試合出られねーよ。」
ムッとして本田のバッシュを踏むと、梃子の力を使って軽々と跳ね除けられる。ビビった?とでも言いたげに悪戯っぽい笑顔で顔を覗き込んでくるのが、俺の神経を逆撫でする。
「まずその格好、どうせ運動部たくさん掛け持ちして全部そのカッコでやってるでしょ?あと水筒の大きさと水分補給の頻度を見る限り慣れてないだろうなってのも、わかる。どうせ高校から始めたんだろお前。さっきから時々取ってつけたような応援してるの聞く限り、一年だよね?」
本田が胡座をかいて膝に頬杖をつきながら、黙ってしまった俺を横目で見る。
「何個合ってた?」
「……知らん。わかんね」
「じゃあもう一個、当てるわ」
本田が唐突に俺の手首を掴んで体育館の出口へ走る。あまりの驚きで声が出なくなっている俺を振り返る顔は逆光でよく見えない。
「連れションしてきまーす!」
本田が大声で言いながら、バッシュのまま外へ出て、野球部やテニス部の横を通り過ぎて校庭を抜け、校舎も通り過ぎて裏門から外に出る。
「どこ行くんだよ!?当てるって、これの何が!?」
「お前は心のどこかでずっと言ってた、誰かー、ここから連れ出してくれよー、って」
訳がわからないまま強く手を引かれて、それでも本田の言葉を何故だか否定できなくて、後をついて走った。通ったこともない細道を抜け、アニメに出てきそうなあからさまな空き地を通り過ぎ、使ったことのない駅に出た。
「何やってんだよ!ちょっと……バレたら終わりだろ!こんな、財布も持たずに」
そう言いつつも、これからどこへ連れて行かれるのだろうかと期待している俺と、どうせすぐ帰ることになるだろうなと呆れ半分の俺が同居していた。
「この駅、俺顔パスだから。」
「は?」
本田は改札で本当に立ち止まらずに走っていく。
「走んのはえーよお前!つーか、顔パスって何!?」
「変な夢見てるみたいでしょ?ふふ」
本田は俺を連れて丁度来た電車に飛び乗って、ガラガラの電車の座席に座った。
「これ何線?どこ向かってんだ?」
「それ今必要な質問?面白くない」
「はぁ?なんだお前、何者?」
ついに本音が口から漏れる。それでも本田は答えない。
「5番、お前なんて名前なの」
「……矢崎。」
「へー。」
ふたつ駅を過ぎたところで不安はとうになくなっていて、コイツについていけばなんとかなるような気がしていた。それどころか、不思議な万能感に支配されていて、それが妙に心地よくて、本田の言う通り本当に変な夢を見ているような感覚だった。
「降りるよ、矢崎」
本田に言われるままに見知らぬ駅で降りると、息が詰まるほどの蒸し暑い真夏だというのに、ホームの外には桜が咲いていた。改札を抜けると目の前がゆらゆらと歪むほどに暑い。その先に咲き誇るソメイヨシノが、なんとも気味が悪くて、それでいて頬にあたる爽やかな風は心地よかった。
「矢崎、常識ってなんだと思う」
「常識?」
「正解は、桜が咲くのは春、っていうつまんねー価値観のこと。」
「何言ってんのかわからん」
「矢崎には俺じゃなきゃダメなんだよ。わかる?」
「……わかんねー」
本田が笑ったから、俺も笑った。
少し歩くと、真っ赤な鳥居があった。
「見てよ、神社だよ。どう思う?」
「鳥居がデカくてすげえ」
「シンメトリーってクソだよね」
俺が黙っていると、本田が俺を振り返った。
「世界一圧倒的なシンメトリーだよ、鳥居は」
そう言って本田はふと財布を出して、すぐ近くの自販機で無造作にアクエリアスを買った。
「お参りしよう、矢崎」
大きな神社の中は、ひんやりと静まり返っていて、風ひとつ吹いていない。
手を合わせてお参りをして本田を見ると、目が合った。
「矢崎は何お願いしたの?」
「学業成就じゃね?」
「嘘つけよ。」
逆光の中でニヒルに微笑む本田を見て、セミの声がうるさいなぁ、なんて思った。
「長袖、暑くねえの?」
「暑いよ。でも暑がるのってダサいじゃん。」
本田はそう言いながら汗ひとつかいていない。
「こっち来て。」
本田についていくと、神社の中に川があった。たくさん錦鯉が泳いでいる。
本田がジャージのポケットから小さな菓子パンを出して、パンのかけらを川に落とすと、錦鯉の大群が群がってきた。
「うわっ!」
俺が驚いて後ろに倒れ込むと、錦鯉は陸まで上がってきてパンくずをねだった。本田がパンくずを宙に放ると、宙を舞うパンくずに鯉たちが跳ね上がって食いつく。
「綺麗だよね、ここの川。よく来るんだよね」
「いや怖いだろ、本田やっぱおかしいよ」
「恐怖と美しさって表裏一体だよね」
それから、どう帰ったのかは覚えていない。気がついたら自分の家で寝ていて、本田は怪我をしていてもうバスケができないことはあとから知った。
それから本田に会うことはしばらくなかった。
.
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次に本田に会ったのは、高校二年生の冬のある日、塾帰りにコンビニの前で豚まんを食べているときだった。
「お、矢崎じゃん。」
コンビニから出てきたのは大きく膨らんだマフラーを巻いた本田だった。
「覚えてる?俺。本田」
忘れるわけないだろ、と言いかけて、「覚えてるよ」とだけ返した。
「いいなー、肉まん」
「豚まんだけどな、これ」
「豚まんを選ぶのは金持ちだけだよ」
本田はそう言って横に腰を下ろした。
「寒くね?」
「うん、寒い。」
「矢崎は大学行くの?」
「うん、早稲田か慶應か……」
「へえ。私立か」
本田はガサガサとコンビニの袋を漁ってツナマヨのおにぎりを食べ始める。
「ゲーセン行かね?」
俺が提案すると、「いいね、行こう」と本田が笑った。なんだか、このまま別れたら一生会えないような気がしたから、本田が乗り気だったのが無性に嬉しかった。
「俺いいとこ知ってるから、行こう」
そう言う本田に着いていくと、少し街から外れたところにぽつんとゲーセンがあった。
「なんだここ。また変なところ知ってるな、本田って」
「魔法使いだからね、俺」
「何言ってんの?」
そんな会話をしながら店内に入ると、UFOキャッチャーやらプリクラ機やらが並んでいて、ガラガラかと思いきやぽつぽつと人がいる。遠くで、本当に遠くのほうで、流行の音楽の有線がかかっていた。
「あ、このぬいぐるみ欲しい」
「何のキャラ?これ」
「知らない。」
絶妙に不細工な猫のぬいぐるみのUFOキャッチャーの前で本田が財布を取り出す。
「5回できる。取れるかな?」
「500円しか持ってねえの?キャッシュレス派?」
「いや、普通に金ない」
本田がUFOキャッチャーに小銭を入れると、ピロン、と音がして、本田がアームを動かす。
「俺さ、結構得意なんだよね、UFOキャッチャー」
本田はそう言いながら横に回ってアームを調整する。
「ほんとかよ」
言った側からぬいぐるみがアームから落ちる。
「この犬は何色?」
「薄い黄色と茶色」
「そっか」
なんでそんなこと聞くんだよと一瞬問いかけようとして、口に出す前に、本田は世界の見え方が違うのか、と妙に納得した。
「矢崎」
「ん?」
「バスケやってる?」
本田がUFOキャッチャーから目を離して俺を見た。
「まあ、適度に」
「そっか。俺はやめちゃった」
「知ってる」
「あ、そ」
本田は少しだけ目を伏せて笑って、UFOキャッチャーに目を移した。
「取れないかも」
本田が手のひらの100円を見せて言う。
「もったいないかな?」
「本田の全財産が100円ならもったいないかもな」
「UFOキャッチャーってロマンあるよね」
「それは、そうかも」
行こう、と本田がゲーセンの奥の方に進んでいく。
「矢崎、ゾンビ倒すゲームやろう、ゾンビのほうがロマンある」
「そうか?」
「そうだよ」
本田が言うならそうなんだろう、と思った。
奥の方にひっそりとたたずんでいた古めかしいゲーム機は本体も取り付けてある銃の形の機械もうっすら埃をかぶっていて、画面には「100 yen GAME START」と表示されている。
本田が100円を入れて銃をかまえると、次々に現れるゾンビを器用に撃って倒していく。
「うまいな、本田、このゲーム」
「10年ぐらいこればっかりやってるからね」
本田が画面から目を離さないで口角を上げる。
「俺は本田がゾンビになっても本田ってわかるよ」
ふとそう口に出して、すぐ後悔する。「なんだそれ」と本田が言う。
「なんか、本田って変だもん」
「俺も、矢崎はチビだからわかるかも」
「伸びしろあるよ?」
「ないだろ」
無言で画面を眺めていると、
「まあ、俺も矢崎はどんな姿でもわかるだろうな」
本田がつぶやいた。俺も何か言おうと思ったけど、何が正解かわからなくて、聞こえなかったフリをした。
本田がゾンビに殴られてゲームオーバーになったところで、時間を見たら3時間経っていた。
「嘘だろ?」
「何が?」
「本田、もう日付変わるよ」
「結構遊んじゃったね」
本田がポケットに手を入れてニヤッと笑う。
「いやいや、UFOキャッチャー4回とゾンビのやつ1回だろ?」
「歪んでんだよ、ここ」
「何が?」
「時空だよ、時空に決まってんじゃん」
そんなはずがないはずなのに、本田が言うならそうなのだろうと思った。
「本田」
「何?」
「なんか、泣きそう」
「なんでだよ」
「お前にもう会えないのかも、って思うと、ヤバい」
「はは、面白いね、矢崎」
半泣きの俺を見て本田が笑っていた。そこでまた記憶が途切れた。
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高校三年生の、少し涼しくなってきた頃、池田と公園でブランコに乗ってコーラを飲んでいた。
「……これからどうなるんだろうな」
「これからって?」
「将来とかさ、あと……」
俺は色々言おうとして、「何もかも変わっちゃうんじゃないかって、怖い」と言って顔を覆って、ゴシゴシ擦った。
「大丈夫だよ。矢崎は矢崎だし、俺は俺だよ」
「大丈夫ってなんだよ。池田、怖いよ俺」
「いくら変わっても、慣れちゃうんだよ。そうなってるんだよ」
池田はそう言いながらコーラの蓋を弄ぶ。
「なんでも相談してよ、矢崎」
「それは、俺のセリフでもある」
「いい奴だねー、矢崎……いや」
池田が何か言いかけてやめる。
「矢崎は、矢崎、から卒業する?」
「うん、そうだな」
「じゃ、俺も」
池田はそう言って柔らかく微笑む。
「矢崎、これからもよろしく」
「よろしく、池田」
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大学生になってからは、大学生らしく退廃的な毎日を送っていた。授業以外は外に出ないで、家で漫画を読んでいた。
ある日、大学の唯一の友人の青柳に、「本田家」に連れてこられた。それが本田との再会だった。
本田家に入ると、あの本田が、美化され続ける記憶の中でだけ生きていた本田が、目の前でゲームをしていた。
「……本田」
「お、青柳の友達?」
本田がゲームを中断して、俺をしげしげと見た。
本田が俺の目を見つめる。目の、奥の奥まで見透かされているような気がした。
「お前」
本田が口を開く。
「……なんて名前なの」
本田を見つめた。一瞬、ほんの一瞬、気づいてくれるかな、と思った。
本田。幻みたいな奴。夢を見ていたような思い出の中にだけ存在する奴。
「……池田。池田翔」
「へー。でけえな、お前。どこ大?」
「早稲田の、文学部です」
「じゃあ俺の大学の後輩か」
まあ座って、と座らされる。本田が俺を異質なものでも見るように見る。
ずっと会いたかった、本田が目の前にいる。
もしできるなら、池田と体が入れ替わる前に、矢崎、として会いたかった。それ以上に、何気なく本田が言った、どんな姿になっても見つけてくれるという言葉を信じてしまっていた。
「なんか、前にも会ったことある?」
「ない、ないです」
「そっか」
本田がゲーム機のコントローラーを渡してくる。
「一緒にやろー、池田」
本田は変わってしまったんだ、と思った。魔法使いだと言っていたあの頃から、俺と同じただの人間に。いつでも会える、普通の人間になってしまった。
それとも、俺が「矢崎」だったから本田は魔法を使えたのかもしれない。変わったのは俺の方なのだろうか。俺はもう、「池田」になってしまったのか。
「ちょっとー、池田、なんで泣いてんの」
「や、なんか……すみません」
「泣ける時に泣いとけよー」
本田はそう言ってティッシュ箱を渡してくれる。
「本田……さん、ここまた来ますね」
「おー、待ってる待ってる」
俺は、やっと、そっと淡い憧れに蓋をした。
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「もしもし、青柳?……今大丈夫?うん、ちょっと話したいんだけど。この間俺の家に来てくれた池田って子いるじゃん。……そうそう、早稲田文学部の、泣いてた奴。あの子の連絡先教えてくれない?……あー、探してた人?矢崎?あの子はもういいや、なんか変わっちゃったみたいでさ、あの子はひとりで生きていけるから。……うん、池田はね、池田は……俺がいなきゃ、俺じゃなきゃダメだと思うんだよね。意味、わかる?……うん、わかんなくてもいいよ、とりあえず連絡先だけ教えて。よろしく……」
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