子どもの成長


この春から小学生に進級する友人の子どもが多い。めでたい。
つまりはその子たちはこの世に生を受けて丸6年経つということになる。

子どもの成長というのは目に見えてわかりやすい。もちろん内面もだけれど。一方で大人は…衰えは目に見えてわかりやすいね。

6年前。
わたしは生涯をともに過ごすと決めた人との入籍を間近に慌ただしい日々を送っていた頃かな。まさかあんな僅かな時間で離縁するとはつゆ知らず、間もなく訪れる人生の大きな節目に誇らしくもあった。

6年後。
今年の夏で34歳になるが、その頃には子ども二人くらい生んで育てているだろうなとあの頃は思い描いていた。現実は実家へ出戻りで年金暮らしの親と独身の中年兄に生活を支えられて生きている。たまに販売員として働き、すぐに疲れ果ててしまい数ヶ月部屋にこもってチャージする、半身引きこもりの、わたしも立派な中年女だ。

丸10ヶ月、母体の中で生命は育まれこの世に誕生する。それからは毎日が成長の嵐だ。一つ一つ、ひとりでできることが増えていき、丸6年で小学生になるのだから。人間はすごい。

もう幼稚園か、もう小学生か、早いなぁ…
と近所のおばさん気分になる機会も増えていき、この子たちは6年でこんなに成長してるのにわたしはこの6年何してたんや…?とそのたびに振り返ってしまう。しかし振り返ってもあまり良い感情にはならない。
相変わらず自身の社会不適合な日々と、あまりにも早すぎた離婚、併走して父の度重なる病に翻弄される数年間、その度に発生する父との衝突、突然亡くなった札幌の伯父の後始末、そして婚約と破談。

いろいろと経験はしているが、しないに越したことはない経験ばかりで思い返しては心身ともに疲弊する。人は経験したところで、それが身になっていなければ下痢をしているのと同じだ、とそのようなことをゲーテが言っていたような。

もちろん嬉しかったことや楽しかったことがないわけではない。離婚してからのあらゆる出会いは今でもわたしにとっては宝物だ。離婚してあらゆる価値観がぶっ壊れたからこそ出会えた人たちなのだろうとも思う。

この6年で、結婚や出産という人生の節目を通過する友も多く、それによって自然と疎遠になってしまう人もいた。意識しなくとも女性にはそういう時期がくるのだろう。人生のステージが変わるということは出会うひとや環境も変化する。ごく自然のことだ。

子どもの成長はめでたい。
妊娠出産を含め、ひとりの人間を生み育て守り、苦労や我慢、そして忍耐とともに奮闘している姿は本当に尊敬する。何よりも幸せなことにわたしの周りには苦労も含め、純粋に子育てを楽しんでいる友が多い。子育ては親育てともいうが(そうならない親もいるが)わたしの友たちは本当に立派だ。きっとわたしの知らないいろいろがあるのだろうけれど、それでも皆の器の広がりっぷりは本当にたくましく美しい。

と同時に自分の悩みの小ささに情けなくなる。
生きててごめんなさい、ってなる。
悩みに大きいも小さいもない。わかってる。
が、社会になんの貢献もできずに生産性のない自分の姿を見ると「お前、何息してんだ」と怒りさえ覚えてくる。
どこまでいっても外側にしか価値を見出せないクズ野郎だ。

一度目の結婚をする直前に、婦人科で内膜症からくる卵巣チョコレート嚢胞というものが見つかった。両卵巣ともに腫れていた。内膜症は一般的には不妊の原因になるといわれている。自覚症状はほぼ皆無で、身体感覚が敏感すぎるが故の発見だった。ぎりぎり手術するかどうかの大きさだったが、結婚が決まっていたことと妊娠希望であることから、一先ず半年間ホルモン治療をすることになった。
10代の頃から人一倍冷えや食事、養生していたし、なぜわたしが?と本気で落ち込んだが、元夫のリフレクソロジーにも助けられ、半年もかからずに寛容状態になった。薬が身体に合って本当に良かった。(当時同じ治療で血栓症による死亡例が相次いでいたのだ。)

しかしながら子宝には恵まれなかった。

そのあとわりと早くに離婚したので、語弊はあるがある意味身軽でよかったのかもしれない。


こんなことを公にするのもどうかと思うが、その後ご縁があってお付き合いし婚約した彼とは付き合い始めた早い段階からチャレンジしていたのだ。
何がなんでも!という力んだ感じではないが、わたしの年齢や身体のこともあって、恵まれるのであればそれがタイミングだろうとお互いそのつもりで、だ。

約3年。その時は来なかったけれど。


姪っ子や甥っ子がいればまた違ったのかもしれない。
わたしの兄は二人とも結婚しておらず、もちろん子どももいない。
父方の兄弟は伯父も叔母も離婚しており、伯父は結婚時に子宝には恵まれたがやむ負えぬ事情で堕胎、叔母は10年間授からなかった。なので父方の従兄弟はいない。母方に歳の離れた従兄弟がいるが住む土地も歳も離れているので小さい頃からあまり関わりがなく、祖父母の葬式で会ったくらいだ。

なんだかうちは、子孫繁栄に縁がない。


それにわたしは何がなんでも子どもを産みたいという強い感情はないので、不妊原因を調べて、治療をして、ということは考えていない。第一そんな治療費もほとほとない。
なので調べてもいないし、原因が自分にあるのかどうかも知らない。日本では1年経ってもできなければ理由があろうがなかろうが不妊といわれるそうだが…。

自分が不妊なのかどうかを病院で診断されたわけでもないからこんなことを書くこと自体的外れなのかもしれないし、次が恵まれるその"とき"となるかもしれないし、こればかりは"天のみぞ知る"なので何とも言えないけれど、大切な友たちの子どもの成長を愛くるしい気持ちで見ているわたしと、それを経験していない、できないかもしれない女としての焦燥感や嫉妬、心から純粋におめでとうと言えない自分の器の小ささに、ハゲそうで、頭がおかしくなりそうなわたしがいることは紛れもない事実で。


ただ、これは口が裂けても言えない。言ってはいけないことだ。自分の中で消化させることだ。友たちは何も悪くない。単純におめでたいことだ。ただそれだけ。上も下もない。人それぞれの人生がある。とずっと言い聞かせて、その度にダンベルのように重くて硬い塊を抱え続けてきたのでもうそろそろおろしたい。

もうね、嫉妬心の塊です。
めちゃくちゃ羨ましいです。
女として未熟で一人前になれない…

またひとり、置いていかれてしまう

どうしてわたしは…って比べてもしょうがないことを比べてばかりで吐きそうです。実際に長らく待ってみてもその機会に恵まれなかったから。
(これからまだわからないけどさ。)


こんなことを発言したら結婚して子育てしている友は何も言えなくなる。話したくなくなるよね。友たちは離れていってしまうだろう。
そしたら一緒に可愛い子どもたちの成長を喜ぶ機会もなくなってしまう。
そして、あぁ、かわいそうな人だな、と哀れな目で見られる。つらい。わたしはいい奴でいたい。相変わらずクソやろうだ。


ろくに働けなくて、名の通り(社会)適応障害と診断され、翌月のスマホ代と奨学金を払うことさえいつもぎりぎり。性別上の女としても生産性がない。せめて社会人としてそこそこ働けていたのなら、そこの穴埋めもできたのかもしれない。


お金をかけずに、自宅で美味しいお茶を淹れ、お香を焚き、掃除をし、たまにラジオを聴き、本を読む。散歩をする。それらはとても有り難いことで贅沢なこと。けれどもすべて向き合うのは自分だ。もう飽きた。10年以上向き合い続けてこのザマです。飽きました。生産性ゼロです。こんなわたしが貴重な酸素吸ってすいませんほんと。って笑えてくるね。


「ちーちゃんは一度結婚できたじゃん。なんなら二度もプロポーズされてるじゃん。じゅーぶんやん。」と一つ下の仲良しの販売員に言われたことがある。

あぁそうか、わたしもバツイチでなければきっと同じ位置で同じ言葉を発していたのだろうな。人間、どこに立っていても何かしら問題を探してしまうものなのかもね。
足るを知るって、いまここに有るものを探すってことなのだろうけれど、禅問答じゃないし俗の人間だから、そうなれない時もあるよね。

その女の子の言葉を思い返していてふと浮かんだのは、人は誰からも選ばれないということがひどく悲しく寂しいことなのかもしれないよね。誰かから必要とされること。ただ存在していることに価値があるという文面は理解はできるけれど、人はそんなに強くない。
ふと顔が浮かんだり、美味しいものを食べたら今度は一緒に来たいなぁと思ったり、楽しいことがあったらいち早く伝えたくなったり。そういう相手って、もちろん家族がいるなら家族でいいんだけど、そうじゃなくて、血縁関係の家族とはまた違った親しい相手という存在があるとやっぱり嬉しいし、互いに他人だけれど必要としている見えない愛情というのは人を強くたくましくしてくれるのだと思う。

そういう意味で"誰にも選ばれなかった自分"というのは、その人における自己肯定感を大きく揺るがすものになるのかもしれない。


ここまでつらつらと書いていてわたしは衝撃的な事実に気がついてしまった。


何がなんでも子どもを産みたい。という強い感情がないはずなのに、なぜこんなにも執着しているのか。


ここまできてもまだなお、社会から、世間から見られる"女性像"に価値の重きを置き、
"一般的"がすべてで、それにそぐわないわたしはだめなんだ、人として未熟者なんだ、と強く自分を責める材料としていたのだ。


そういった価値観を持っているわけじゃない。
あくまでも体裁を、世間をちゃんと気にしている"フリ"をし、そして何でもいいからわたしを責める材料が欲しかった。罰する理由が欲しかったのだ。


本当に根気強いなぁ、わたし。
懲りひんなぁ、わたし。

情けなくて涙でるなぁ。


そんな状態で子どもなんて授からへんわな。
当たり前やわ。
そりゃお空からも選んでもらえへんわ。


"なんのために"こんなにも周囲からの称賛が欲しいのだろう。
"なんのために"周囲から認められないと生きている価値がないと思い込んでしまっているのだろう。
"なんのために"こんなにも自分を痛めつけることばかりをかき集めているのだろう。

"どうして"はもうやめる。
"どうして"と過去に原因を探しにいくのはもうやめよう。
"なんのために"と問いかけて新たな思考回路を作ろうね。


はぁ、毎度のことながら長くなった。
簡潔に書きたいもんやねしかし。笑
2時間ずっとiPhoneのメモに入力したで。
この集中力と言語化をどこかに活かせへんもんかね。

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