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救われたいと思いながら誰かを救っているのかもしれない。

私は、思ったことをそのまま口に出してしまう性格だ。

そんな私を「素直で良い。」「嘘をつかないところが良い。」「それがあなたらしさだから。」と仲良い人は言ってくれる。嬉しいけど、とても無責任だなと私は思う。

この持ち前の素直さ、悪く言えば相手の気持ちを考えられない性格で親しい人を何回も傷つけてきた。特に過去の恋人が一番の被害者だと思う。

相手の傷付いた顔を見て

「あ、やってしまった。」と思う。

その時には、もう遅い。時間も言葉も不可逆的だ。言ったことは無かったことにはできない。吐いた空気を再び吸い込んでみたとしても、一度放った言葉は戻ってこない。

怖い。

自分の言葉で人を傷付けた数だけが増えていく。私は、いつのまにか言葉を発するのが怖くなった。毎晩寝る前に「相手の気持ちを考える。一度考えてから言葉を発する。」と唱えていた時期だってあった。
自分の口からでる言葉は災いの元のような錯覚にも陥った。

もう二度と、余計なことは言いたくない。
もう二度と、私の口から発する言葉で大切な人を傷つけたくない。

そんな時に出会ったのが「文章を書くこと」だった。

文章は、一度書いた言葉達をゆっくりと見直すことができる。相手の気持ちになって読み直してみたり、声に出して読み直してみることができる。自分の思った事を伝える手段として、口よりも安心して発することが出来るような気がして心地よかった。

noteで文章を書いていたら「救われました。」とコメントきた。それも一回じゃない。複数の記事に複数の人から「救われました。」と届いた。ビックリした。

私の言葉は災いの元だなんて思っていたのに、文章を書いたらその言葉に「救われた。」だなんて想像もしていなかった。そして、気づいたら私は救われたという言葉に救われていた。

私が文章を書いたきっかけは"救われたかった"からだった。いつも自分に言い聞かせるように文章を書いていた。救われたかったのに、誰かを救って、その誰かに救われる。

救われる救われる言いすぎて、なんだか変な宗教みたいだけれども、文章を書いていて気付いたことがある。

もしかして、人ってみんな何かから救われたいと思いながら生きている?そして、その救われたいという気持ちが他人を救う?結果、自分も救われるのでは?

人が関わり合うことで救い合っているのかもしれない。その手段の一つが文章なのではないかと思った。

だから、私はこれからも文章を書いていきたい。
そして、救われた文章には積極的に「救われました」と伝えていきたい。自分が救われるために。人と救い合うために。

#つくるのはたのしい #エッセイ #ひとりごと

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