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「継続は力なり」の限界

日記の二日目である。今日は諸用で帰宅が遅くなった。

友人との時間を設けることも、切り上げて帰宅してこれを記すことも、明日の朝も余裕を持って迎えることも自分で決めたことである。

手短ではあるが、最近感じたことを記すことにする。

「継続は力なり」

よく目にする言葉である。このフレーズに対してその通りだな、と思う反面、その意味の真髄について感じたことがある。

例えば自身の何かしらに対して問題意識を抱いた人間がこの言葉を目の当たりにして、何かを変えるべく継続的な取り組みを実践するとする。

折々に、面倒臭さや煩わしさに直面しては、この言葉を自分に言い聞かせ、鼓舞する場面は容易に想像できる。

実際今までの自分にも幾度となく起きたことである。

ここでふと思うのが、

’継続’が課題になっている時点でその目標設定に未来はないのではないのだろうか、ということだ。

何かを成し遂げた人間は、続けることを目標にしていたわけではないだろう。

己が目指す目標を掲げ、その手段として習慣化した努力を、

到達した場所から振り返って’継続’と呼んだのではないだろうか。

あるいは当事者からすれば継続とも思わないかもしれない。

自分が目指す場所と現在地を踏まえ、そこに向かう術として実践したプロセスを第三者が評価したものを継続と呼ぶに過ぎないのかもしれない。

方法を目的にしてはその先はない。

先立つのは目的だ。

自分の中に確固たる目標到達地点があり、そこで初めて日々進めるあゆみの一歩一歩があるのだろう。

「継続は力なり」、その言葉に心打たれ何かを習慣化する必要にかられる前に、今一度自分のなりたい自分を見つめ直し目的地を設定する。

そうして初めてこの言葉の持つ深淵に触れ得るのかも知れない。

ここに発した自分の言葉が果たして確かな気づきと兆候となるか、はたまた壮大なコメディになるか、日記を記し始めて二日目の私にはまだ知る由も無い。

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