無闇矢鱈に感想を述べるな
人はわかりあえない。どうやら共通項らしいものがたくさんあるが、根本的には結局違う人間なのだから、理解できなくて当たり前である。
さて、やたらめったら多様性を尊重する声がよく聞かれるようになった。
noteの企画もその一環だろう。私が人と接する上で意識していることを、多様性という側面から考えてみたい。
私はトマトが嫌いだ。正直、人類史において最初にあの実を食した個体が、なぜあれを可食と判定したかすら甚だ疑問である。
これを読んでいる人にも何かしら食べ物の選り好みがあるだろう(そもそもハッシュタグをつけるという安直な手法でこの文章が何人の目に届くかはわからないが)。
好き嫌いの話に及んだとき、私含め誰もが一度は言われたことがあるだろう。
「えー!それ食べられないなんて人生半分損してるよー!」
やかましいわ。嫌いなものは嫌いなんだよ。
まあ、会話の途中にそんな棘のある発言は控えるが、実際そうである。
人の好みには、極論理由なんてないわけで、あなたの感想をぶつけられてもどうしようもないわけである。
トマトはできることなら避けて生きていきたい。
いわばこれが私の人生にとっては当たり前である。
さて、あなたの知人が「私、同性が恋愛対象なんだよね。」と言ったら、あなたはどう反応するだろうか。
「そうなんだ〜」
以上である。それ以上でもそれ以下でもない。人の思想、趣味、嗜好は全て事実であり、そこに善悪も評価も存在しない。
時折、何かしらの属性においてマイノリティである人の発言や存在に対して、「大変だね」「私は理解しているよ」などとのたまう輩がいるが、そんなのは多様性に理解があるわけでもなんでもない。
生まれ育った環境と、その人が持つ性質の相互作用として存在している嗜好や性質は、そこに存在している時点で紛れもない事実だ。それが私たちにとっての当たり前だ。
その当たり前に対して、別の当たり前で育った人から下される評価の全ては、例外なく偏見である。
「トマト食べられないなんて勿体無いよ!あんなに美味しいのに!」
「同性を好きになるなんて信じられない!どうして?」
「体が不自由だと色々大変だよね、相談して!」
否定よりは大分ましだとは思うが、多様性への理解からは程遠いように思えてならない。
自分を尊重するのと同様に他人を尊重するのであれば、たとえどんなに自分と違う人間に相対したとしても、当たり前に理解できないなりにその人を受け入れる。それが多様性への理解の受け皿だと思う。
別に理解なんてものは求めていない。自分と違う人間を認めろ。
みんながみんな違う人間であることを認識した上で、初めて他人の当たり前を理解しようとする姿勢が生まれる。他人の当たり前から見る世界を少ない誤差で想像できるようになって初めて、社会の一人として相互補助のために何ができるかを考えるスタートラインに立てる。
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