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質と水準

小学生の頃に触れたインターネットはまさに全知全能であった。

興味関心疑問が持ち上がってくれば、物々しい匣が専門家のまとめたものを映し出してくれた。検索エンジンは少年のありとあらゆる疑問に答えてくれた。

その当時はまだパソコンは一家に一台といった具合の普及率だったように幼いながら認識していたが、私が大人になった現在では一人一台は当たり前で、それどころか黎明期のものに比べて遜色ないスペックのものが手のひらサイズになり人々のパートナーとしてもはやインフラと言っても差し支えないほどに生活に浸透している。

かつて恐る恐る人差し指で押していたキーボードは、今や手書き文字より早いスピードで私の言葉を反映する。

インターネットもテクノロジーも、身近になった。個性や個人主義を謳う社会的な風潮も相まって、文字通り誰もが、文字通り何でも発信することができる。

人々のデジタルの水準が上がった。

それを使って一攫千金を目論む人が溢れかえった。

検索結果は浅はかで胡散臭いアフィリエイトと通販の広告で塗れ、専門家たちがプロに依頼して懇切丁寧に纏め上げて発信した情報は埋もれた。

インターネットに限った話ではないのかも知れないが、水準が上がれば当然それは普遍になる。普及しなければ手間暇と情熱を厭わない人しか寄り付かない場所になる。誰でも簡単にアクセスできるものになった今、インターネットは有象無象の一般人が個人主義を盾にして裏付けもない意見を垂れ流す場所になった。もはやそこに学問や知性への窓口としての役割は期待できないのかも知れない。

目につくのは「あわよくば成功してやろう」という魂胆を隠しもせずに、ウケそうなものを大声でがなりたてるものばかりだ。書籍もいつからかそうだしnoteだってそうかも知れない。発信するに足るものがどれだけあるだろう。

もちろん個人の趣味の範疇での記録はとても素敵だと思うし、エンタメ娯楽にはしっかりとした基盤は特に必要なくシンプルに面白くて興味関心を引くものが求められるわけだが、それにしても水準が上がったせいで質のよろしくないものが目につきすぎて辟易する。

とまあこの文章も発信するに及ばない一般人が自己満足として書き留めたにすぎない。

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