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星に帰った我が良き友よ

2022年6月12日、快晴の日曜日の朝9時半、その知らせは彼の奥様から私の女房の携帯に届いた。

本を読んでいた私の書斎に女房が飛び込んできた。

「パパ! 星野君が亡くなったって!」

気が動転するとはこのことを言うのだろうと、自分を客観視できるほど冷静に動転している自分がいた。

彼はちょうど一年前に急性骨髄性白血病を発症し、苦しい闘病生活を経て、その朝、奥様と息子に看取られながら62歳の生涯を閉じた。

1.僕たちの出会い

彼と出会ったのは高校2年の時だった。

われわれが通っていた東京都立両国高等学校は旧制三中として知られ、一中の日比谷高校、二中の立川高校と並び、下町の名門校として名の通った高校だった。

卒業生先輩諸氏には幾多の著名人を輩出していて、なかでもわれわれの最大の誇りは第7期卒業生の芥川龍之介であり、彼の成績表はいまだに学校に保管されていて、無試験で旧制一高、今の東京大学に入学を許されたと古株の先生たちから何度も聞かされていた。

そんな進学校においては時折場違いな生徒も入学してくるものだが、間違いなく彼もその一人で、髪をリーゼントにし太めのズボンをはき、いつも肩で風を切って歩いていた。

授業中はというとはっきりと机を枕にしてうつ伏せになって堂々と寝ていて、先生から注意を受ける、そんなタイプの生徒だった。

そんな彼と2年生の時に同じクラスになり、中学が隣の学校で自宅もそれほど離れていなかったので下校時によく一緒に帰ったりもしていたが、当時の私は学校の勉強の教科ごとのボリュームの多さ、進むスピードの速さについていくこと、そして数学や漢文を学ぶ楽しさなどから、どちらかというと勉強嫌いでバンカラでヤンチャな感じのする彼とは、あまり深入りせずに一定の距離感を保って付き合っていた。

でも、お互い惹かれるところがあったのだろう。

徐々に彼との距離は縮まり、2学期に入ると文化祭やら体育祭やらと学校行事が多くなり、そのころにはいつも一緒にいたことを覚えている。

学校近くの錦糸町や亀戸あたりの安い居酒屋に学生服のまま上がり込み、車座になって酒を飲み歌をうたい、大声で語り合ったりした高校2年の秋のことが思い出深くよみがえってくる。

不思議なことに、この時の飲み代はだれが払っていたのか、そしてどうやって家まで帰ったのかだけは、どれほど考えても全く思い出せない。

彼は182㎝の長身でとても正義感が強く、たばこや酒はみんなと一緒にやっていたが、不正には極めて厳しく一本筋が通っていた。

そして決して弱い者いじめをすることのないまっすぐな男で、むしろ悪そうな上級生に自分から向かって喧嘩を売っていき、逆にこっぴどくやられてしまうという、そんな愛すべき男だった。

当時の都立高校ナンバースクールには戦前から30年以上勤務している教師もいて、教師そのものが学校の伝統を受け継ぎ語り継ぐ存在として常に凛然としていた。

中でも現国の吉田輝二先生と数学の横田隆吉先生は、両国高校が背広を着て歩いているような厳しくて心優しい先生として、我々の脳裏に深く残っている。

「君たちの授業に関わる費用、机も椅子も何もかもは都民の税金によって賄われている。したがって勉強をしないものは都民に対して無礼であるからここから出ていけ。」

確か当時の都立高の授業料は月額960円だったと記憶している。

とにかく情熱をもって厳しく指導していただいたことを感謝の念とともに覚えている。

3年生になって彼は、そんな吉田先生のクラスになった。
吉田先生は勉強に関しては不真面目だった彼に対しても、愛情をもって接しておられたような気がする。

厳しい先生からも愛される、ある種の男気のようなものを彼は持っていた。

両国高校では秋に体育祭と文化祭がセットになった両高祭と呼ばれる行事が行われ、一年間の高校生活のクライマックスの行事として多くの生徒たちが、この時ばかりは学業を忘れ、それぞれ楽しい時を過ごした。

いつもは厳しい先生たちもこの時だけは、すべてを大目に見てくれていた。

体育祭は赤や青など六つの色の組に分かれ、それぞれの組に1年生から3年生までがクラスごとに配分されて構成され、組対抗で競い合う形式で行われるのが伝統だった。

この色決めと色ごとの各学年の配属割りも、3年生のクラス代表が集まり話し合って決めていた。
もちろんその中には、彼も私も入っていた。

彼は3年生の最後の体育祭で緑組の応援団長となり、普段は授業中に居眠りばかりしていた彼も、この時ばかりは全力でこの行事を楽しんでいた様子を懐かしく思い出す。

高校時代の記憶に残るドラマのすべてはいつも秋に起こっていた。

あれから45年たった今でも、秋になると少しずつ日が暮れるのが速くなる、そんな時間の進み方の切なさや、夕方の風がだんだんと涼しくなり、風の匂いも夏から徐々に変化していく様を感じるにつけ、少しばかり胸を締め付けられるような想いと、振り返ればいつも彼と一緒にいた高校時代の出来事の数々をはっきりと思い出すことができる。

そして両高祭が終わると、時は一気に受験シーズンへと流れていった。

2.高校卒業

彼の実家は父親が始めた自動車整備工場で、遊びに行くといつも、ある大企業の物流部門を請け負う運送会社の大型トラックが数台、工場に止めてあった。いつか彼もこの仕事を継ぐのだろうと、仲間たちも当然のように感じていた。

今振り返ると、その当時のわれわれの仲間たちで父親がサラリーマンだったという家庭はあまり記憶になく、私の父親は自営の非鉄金属商だったほか、実家が魚屋、材木屋、豆の卸商、酒屋、電気屋、弁護士、さらには父親が区議会議員など、いかにも下町の高校といった環境下で育った連中の集まりだった。

高校を卒業した仲間たちは、各々の進路をそれぞれ別れ別れになって歩んでいくことになる。

彼は家業を継ぐべく、昼は自動車関連の専門学校で技能を習得し、夜は明治大学の夜間に通い学生時代を過ごしていた。

そして高校卒業後、いつのころからか決まった顔ぶれの同窓生たちが自然と彼を中心に集まるようになっていった。

そのメンバーたちの中には、高校時代は彼と同じクラスになったことがないメンバーや会話すらしたことのない連中もいて、いつしか自然と彼の家にやってくるようになり、私と彼ともう一人の友人の家がいつもみんなのたまり場になっていった。

きっとみんな卒業後に進んだ先では、高校時代のような楽しくて情熱的で劇的な時を持つことができていなかったのかもしれない。

そしてみんなでよく旅行やスキーに行くようになった。

行けばいつも1週間は一緒に過ごす。
特に蔵王にはよく行った。
毎年同じ宿に8人くらいで格安で泊めてもらう。食事は3日ごとに同じメニューで、夜は酒を飲んで遅くまで大騒ぎして語り合ったり、トランプゲームを夜中まで真剣にやったりして、何の社会的責任もないモラトリアムな時間をいつも共に過ごしていた。

またこの頃、みんなでよく新小岩の炉端焼き屋に行き、夜遅くまで酒を飲んで楽しんだものだった。
当時、ようやくカラオケが流行り始め、行きつけのその店にも8トラックのカラオケ機器が置かれていた。

彼の十八番はかまやつひろしの「我が良き友よ」だった。

「下駄をならして奴が来る
 腰に手ぬぐいぶら下げて
 学生服にしみ込んだ 
 男の臭いがやってくる
 アー夢よ 良き友よ
 お前今頃どの空の下で
 俺とおんなじあの星見つめて何想う」
(出典「我が良き友よ」 作詞作曲:吉田拓郎)

まさに当時から彼にぴったりの曲だった。
彼はこの曲が大好きだった。

みんなが大学を卒業して社会人になっても、この関係性はずっと続いていった。

もちろん、もうみんなで日程を合わせて1週間休みをとって旅行に行くなどということはできなくなったが、会う回数こそ大幅に減ったものの、なんだかんだと機会を作っては会っていた。

3.結婚、そしてゴルフ

そんな中で、私が仲間たちの先陣を切って結婚することになった。
24歳の時だ。
相手は小中学校時代の同級生で、地元の女性だった。

彼女とは大学2年の時からの交際だったので、学生時代のスキー旅行や飲み会などの集まりにも早い時点から一緒に参加していて、みんなの輪の中にいち早くなじんでいた。

その彼女との結婚披露宴のあとの、友人たちだけの二次会の席に参加していた彼女の会社の後輩の女性と彼がお付き合いを始めたことを知ったのは、われわれの結婚式の1年近くあとのことだったように記憶している。

そして二人は私たちの結婚式から2年後の秋に結婚することになった。

私たちの結婚披露宴が縁でお互いの親友が結ばれたということに、我々夫婦はわがことのようにとても喜んだことを覚えている。

そして二人そろって彼らの結婚披露宴に招待されたのだが、女房は長男の出産が迫っていたので私一人で、たくさんの友人たちとともに心からのお祝いをしたことも。

彼らの結婚式の二日前に私たちに長男が誕生し、その後私たちには二男一女が、彼ら夫婦には3人の男の子が授けられた。

さすがに30代から40代までは、仕事と家庭に目の回るような日々をお互いに過ごしていたので、なかなか以前のように頻繁に会うこともできなくなった。まして私たち夫婦は、40歳で幕張に家を買うまでは地方での転勤生活が長かったこともあり、この間、しばらく仲間たちとは会わずに過ごしてきた。

それが、またよく会うようになったのはゴルフがきっかけだった。

特に50代になり、仲間たちも少し生活に余裕ができ始めたころからゴルフを楽しむようになり、最初は年に2回くらい誘い合って行っていたが、50代も半ばを過ぎるころからは回数も増え始め、年に何度もいろんな仲間たちと行くようになった。

ここでも彼はいつもみんなの中心にいた。

このころには嫁さん達も子育てに手がかからなくなり、年に何回か気の置けない何人かで会っては少しばかり高級なランチを銀座や青山あたりで楽しむことができるようになっていた。

彼は家業の自動車整備工場の社長として父親の跡を継ぎ、立派に事業を拡大しているようだったし、息子たちもそれぞれ成長し社会人となり、充実した時期を過ごしていたようだった。

私たちも幕張の戸建て住宅を売って地元江戸川区内の新築マンションに買い替えて引っ越してきたのを機に、さらに会うことが増えていった。

彼は地元に根差した商売のかたわら、持ち前のリーダーシップと明るい性格から、我々高校時代の仲間たちを中心に「あけくれ会」というゴルフ会を作り、次第に高校時代の仲間たちだけでなく、彼の中学時代の仲間や仕事上のお付き合いの人たちなども集まり、直近では30名近くにまでふくらむ会となっていった

彼はこの会の幹事としていつも会を取り仕切り、毎年3回の定例会を主催し、特に7月の海の日の連休には、福島の白河高原で1泊2ゲームの大きな会を開催していた。

おかげで私たちは、高校の同窓生だけではない同年代の幅広い交流によって新しい友人の輪を持つことができるようになった。

還暦を過ぎてからは仲間たちに声をかけると、平日にもかかわらずすぐに1組や2組は集まり、友達同士でのゴルフの回数も増えていった。

同窓生仲間のゴルフというのは、お互いに一切気を遣うことなく本当に楽しいプレーができる。

世の中のゴルファーは数多くいるが、中学高校の同窓生だけでゴルフを楽しむことのできる人たちって、いったいどれほどいるのだろうか。

私たちは毎回ゴルフ場で、キャディーさんに同窓生のパーティーであることを伝えると、どのキャディーさんも大変驚くほど同窓生だけのパーティというのは珍しいそうだ。キャディーさんたちも特段気を遣う必要がなく、いつも一緒になって楽しい時を過ごしていた。

彼は心からゴルフを楽しむタイプのゴルファーだった。

OBを打っても楽しいし、池ポチャしても楽しいし、大叩きしても、それはそれで楽しく笑顔で一日のラウンドを回った。

それは帰りの車中でも一緒で、今日一日の楽しかったプレーの数々を家に帰りつくまで大笑いしながら話していた。

私にとっても、彼や同窓生たちと楽しむゴルフこそが、本当の幸せを実感できる人生の一コマだった。

4.発病

そんな何時ものゴルフ会が昨年の6月16日水曜日に、千葉のゴルフ場で2組で催された。

事前に彼から連絡があり、彼が私の家に迎えに来てくれて一緒に行くことになった。当時は3回目の緊急事態宣言が終了した1か月後あたりで、二人とも車中ではマスクをしながら往きかえりの道中を過ごした。

その日のゴルフもいつもと同様、最初から最後まで大笑いしながらストレスフリーなプレーを楽しんで過ごした。

そして週が明けた月曜日、彼からLINEが来てそこには一瞬首をひねるような不可解なことが書いてあった。

「体調はどう?」

どうって、どういうことだろう?
第一そんな一言をLINEで送ってくるなんて。

そう訝ってすぐにあることに思い当たり、急いで返信してみた。

「まさか、おまえコロナ陽性になったの?」
「いや、実はあれから微熱が下がらなくて、今朝病院でPCR検査を受けて結果は明日の朝に出るんだけど、濃厚接触者はお前ともう一人の二人だけなんだ。明日結果が出たら連絡するよ。」

そうだったのか、微熱が。

少し不安になったがちゃんとマスクをしていたし、それに彼はいつも通り元気そうだったし、高熱にはならずに微熱であるならば陽性ではないだろうと勝手に決めつけるようにして翌朝を迎えた。

すでに翌日は朝一番で顧客訪問の予定が入っていたので、彼からの連絡を待たずに向かっていたときにLINEが入り、陰性だったということだったので、予想通りと思いながらも一安心して「よかった」とだけ返信した。

そして2週間後の7月6日に彼から来たLINEでは驚きの事実を伝えてきた。

「コロナは回避しましたが白血病になってしまいました。初めての入院生活、快適に過ごしたいと思います」

白血病?

耳を疑い何度かLINEでやりとりしたところ、ようやく様子がわかってきた。

私へのコロナ陰性の連絡があった後も彼の微熱は続き、かかりつけ医のところで何度か診てもらったがよくわからないということで、三井記念病院を紹介され6日に外来診察を受けたところ、このまま帰すわけにはいかないと言われ入院となったということだった。

病名は急性骨髄性白血病。

彼が白血病?

もっとも似つかわしくない男が白血病?

夏目雅子が白血病でこの世を去ったときには、まさに色白の美人に当時不治の病が襲ったのか、美人薄命とはこのことだと驚くと同時に少しのカッコよさをも感じたけれども、あのヤンチャで人一倍元気な彼が白血病で入院?

お前が入院するなら痔の手術辺りがぴったりで、それなら納得感もあるし目一杯茶化して遊んであげられるけど、白血病はないだろう。

血液のがんの場合は外科的治療ができないため化学療法になるわけだが、その苦しみはかつて悪性リンパ腫を患った何人かの知り合いの方から聞いて知っていたので、私は自分のことのように重苦しい気持ちになった。

お盆休みには一時退院して数日間自宅で過ごすこともできたようだったが、骨髄移植に向けた準備に入り、その舞台は三井記念病院から白金の東京大学医科学研究所付属病院に移った。

そこから彼の壮絶な闘病生活が始まった。

9月29日の私の日記にこう書いてある。

「星野はどれほどつらい思いをしていることだろう。
あいつと次に酒を飲む日まで、家での晩酌はやめよう」

ここから私は結婚以来、よほど体調の悪い日以外は抜いたことのない晩酌を止めることになった。

彼は白血球の数値がゼロになったと報告してきた。

私にはその意味が分からなかったが、どうやら彼の受けている治療は致死量すれすれの抗がん剤の大量投与による化学療法らしく、白血球をゼロにして新品の臍帯血を移植したうえで自力で白血球を増やしていくというものらしかった。

当初計画していた骨髄移植は適合するドナーが見つからず、臍帯血移植に変わっていた。

11月27日、彼からのLINEには自力回復に向けた明るい空気感が感じられるようになってきた。
そして、何か元気が出る曲と落ち着く曲を教えて欲しいと言ってきた。

私は考えた挙句、その情報をFacebookに投稿し、友達からお薦めの曲を教えてもらおうと思った。

この投稿には予想外にたくさんのレスをいただき、順次彼に転送していった。

私の投稿に対し、高校時代の友人はもとより彼のことを全く知らない多くの方々がお気に入りの推薦曲と彼への励ましの伝言を送ってくださり、SNSによる人々の絆、つながりの大切さとありがたみを、彼のお陰で身をもって知ることになった。

彼からはその都度、感謝の知らせが入った。

私は間もなく彼が元気になるだろうことを確信し、久しぶりに明るい気持ちになっていた。

そしてわたしたちに最高のクリスマスプレゼントが与えられた。
12月25日の彼からのLINEで、退院を知らせてきてくれたのだ。

「本日、退院しました。我が家は最高です♫」

私はお祝いの言葉と同時に、寒い冬なので風邪をひかぬように用心してくれと返していた。

容態は順調に回復に向かっているようで、1月10日にはこんなLINEが来た。

「今日は退院後、初めて練習してきました。
5割のスイングがやっとでした。
3月頃にハーフでもできるようにリハビリ頑張りまーす」

そうか、もうそこまで回復してきたのか。
その調子なら、春になればきっと9ホールくらいは回れるようになるはずだ。
よかったよかった。

そして続けてうれしいことが書いてあった。

「お酒解禁の初の飲みは、鵫巣さんお願いしますよ」

彼はお酒が飲めるようになる日を心待ちにしている。
そして最初に飲む時には必ず付き合ってくれよなと言ってきている。

涙があふれそうになった。

その日、女房の携帯に彼の奥さんからLINEが入った。

彼が日々少しずつ回復に向かっているうれしそうな日々の報告とともに、どうやら彼が最初に酒を酌み交わす相手に鵫巣を指名しているようだから、その時はよろしくお願いしますとあった。

2月9日のLINEにはこうある。

「週3日、出勤して事務作業しています。
金曜日は通院。
かみさんに付き添ってもらっています。
火曜日、土曜日、日曜日はお休みです。
先週、次男の運転で練習場に行ってきました。
アプローチしかしないつもりでしたが、次男がやけに飛ばすもんで、ドライバー握ってしまいました。
なんと190ヤードも飛んだよ!
4月頃にはスコア関係無しで行けそうです。
酒の解禁もその頃になればいいのですが...」

少しずつだが着実に回復している。
あとは焦らずに時間の問題だ。

2月25日にはこう言ってきた。

「退院して2か月が経ちました。
来月から通院が隔週になります。
投薬は相変わらずです。
肺の状態は改善されていますが投薬を減らすと再発の恐れがあります。
ゆっくり減らしていく方針です。
その他、手足のしびれ、むくみ、味覚障害、視覚障害の副反応が出ていますが、時間がかかるようです。
今の蔓延防止の期限が切れたらそろそろ飲みに行きましょうかね」

確実に前進している。

どうやら癌の数値はゼロになったようだが、肺炎気味になっているようだと分かった。
この文面を後から読み返すと、抗がん剤の再発防止のための投薬によって免疫力が低下して肺炎を併発している、でも、その薬を止めると白血病の再発につながる恐れがあるから、徐々に減らしていくのだ、と解釈できる。

大丈夫だいじょうぶ、確実に前進しているから。

そして1か月後の3月23日。

「退院して3か月、家族や周りの方々の力で人並みの半分くらいの生活が出来るようになりました。
初めての外飲みをお願いします。
みっちゃんとウチの嫁さんと4人で、いかがですか?」

今年一番の明るいニュースだった。

ようやくその日が来たと思い私も女房も心からよろこび、日程調整の結果、彼があげてきた複数の候補日の中から、大安吉日の4月9日土曜日にランチをセッティングすることになった。

念のため、食事制限はないのかと聞くと「ない」と明確な返事が返ってきた。

そこで私は、当日何があっても融通の利くようにと、かねてから行きつけの築地にある懐石料理のお店に電話し、すべての経緯を店主に話したうえで予約し、彼に連絡した。

それが3月25日。

私はその日から浮き浮きした気分になり、もう晩酌を止めるのをやめてもいいだろうと思ったりもしたが、せっかく彼と4月9日に飲めるのだし、彼もその日を本当に楽しみにしているのだからそれまであとわずかな我慢だと思いとどまった。

4月1日にはこんなLINEを私から送ってみた。

「ゴールデンウィークあたり、ゴルフ、ハーフくらい回れそうですか?」

実はすでにゴールデンウィークの平日に、1組の予約を取ってあり、3人までメンバーをそろえてあっての問いかけで、もし彼ができるようであれば最高に素晴らしい日になると思い、投げかけてみた。

私は彼からの返信は、内容がイエスであれノーであれ、すぐにあるものと思っていたのだが、返信があったのは二日後だった。

そのLINEの文面には微妙な空気感が漂っていて、何とも言えないどんよりとしたものが、読んだ私の胸の中に残った。

「その辺も含めて9日に相談させて下さい」

確かにまだまだ急かせるのはよくないな、どうせ夏ごろになれば体力も回復し回れるようになるのだから、私の方が焦っては彼の負担になってしまう、そう思い直して9日を待つことにした。

9日に会うにあたって、何か彼の快癒を祝うプレゼントを用意したいと思い女房に相談していたが、彼女もなかなかいい案が思いつかずに考えあぐねていた。

そして、ふとしたことからかつて大事なお客様にプレゼントしてとても喜んでいただけたあるものを思い出し、ぎりぎりになったがネットで注文した。

それは関西の会社が販売している、自分の手形サイズにぴったり合ったオーダーメイドのゴルフグローブだった。専用の注文用紙が入っていて、手のひらに薬液を塗ったうえで台紙に押し付け、手形に沿って付属のペンで型を取り、専用の封筒に入れて送り返すと3週間くらいでて手作りのオリジナルグローブが届くというもので、今までゴルフ好きな方に送って失敗したことのないプレゼントだった。

そのプレゼントが自宅に届き、ワクワクしながら築地のお店に先に入って彼らが来るのを待っていた。

約束の時間よりも早く二人はやってきた。

10カ月ぶりに会う元気そうな笑顔の彼の姿を期待していた私と女房は、店にやってきた彼の明らかにおかしいと感じるくらい灰色がかって黒ずみ、肌のきめも粗くなってニキビのようなぼつぼつが浮かび上がった顔色を見て、一瞬にしてまだ快癒していないのかもしれないと不安を感じた。

そして、掘りごたつの席に座るなり開口一番、彼はこう言った。

「重大な報告があるんだ。実は癌が再発した。」

このショッキングな言葉に、それまでお祝いだと喜び元気な声を期待していただけに、私たち夫婦の気持ちは暗く重いものへと変わっていった。

「3月末にわかって、先週から通院しながら抗ガン治療を受け始めたんだ。」

「で、今日は食事やお酒は大丈夫なの?」

「それは大丈夫、一切食事制限はないことは医者にしっかり確認してきたから」

再発したとはいえ、それほどの深刻さではないのかもしれないと勝手に解釈し、努めて明るく振舞おうとした。

そして、持ってきたゴルフグローブを彼にプレゼントし、これを注文して次にゴルフをやるときには使ってみてよ、市販のものとは全く違うから、と視線を明るい未来に移して私は励ますように伝えた。

食事は事情を話してあった店主が、たぶん普段のメニュー以上のものを用意してくれていたようで、どれもこれもとても美味しく、この店を選んでよかったと思った。

お互いに生ビールを一杯ずつ飲み、熱燗とそのあとには焼酎のお湯割りを飲み、本当に楽しくそして少し悲しいランチを堪能した。

彼もできるだけ深刻にならないようにと我々に気を遣っていたのかもしれない。

ゆっくり時間をかけて癌を根絶していく、当面、通いで短時間の点滴をして。だけど、あの治療をまたいちからやるのはきついよな、とポツリと言ったりしていた。

「再発したことはみんなに黙っていてくれよな。」

彼に言われたこの言葉は、その後私にとって重い言葉となった。

店主の奥さんに写真を撮ってもらい、彼らはタクシーを呼んで乗り込み、私たちは地下鉄で帰路についた。

それが、彼を見た最後の日となった。

私は迷ったが、ごく親しい仲間たちにはこの時撮った写真をLINEで送った。とりあえずこうして元気そうに会食ができるようになったよと。

週が明けて4月12日火曜日、彼から再入院を知らせるLINEが来た。

「先日は楽しい時間をありがとうございました。
カミさんも大喜びでした、みっちゃんにも感謝です。
さて、本日より再入院となりました。
今回は短期の入院の予定ですが、状況で伸びる可能性もあり、残念です。  
こんな繰り返しの治療になるようです。
他の皆さんには内密にお願いします。
7月のあけくれ会の参加を目標に治療します。」

あの土曜日のランチから3日後に入院。
あそこでお酒を飲んだのがいけなかったのではなかったのか。

早く元気になってもらいたいという気持ちが私の焦りにつながり、その様子が彼にも伝わって断りにくかったのではなかったか。

自分を責めても何にもならないとわかっていながら、もう少ししてあげられることはなかったのかと思ったりもした。

10日後の4月21日に、いつもの仲間たちとのゴルフが2組で行われた。

私は行徳に住む友人を迎えに行き、私の車で一緒に行くことにした。
早朝、彼の家に着くと、彼は車に乗り込んでくるなり、開口一番こう言った。

「星野との会食の写真見たけど、あいつ大丈夫なの?
顔色がすごく悪かったように見えたけど。」

心から心配してくれている。

本当のことを言いたいが、内密にしておいてくれと言う彼の言葉が重くのしかかり、
「うん、まだ通院しながら投薬を続けているみたいだから、薬のせいで顔色は悪くなっているけど、概ね元気になっているみたいだよ。酒も飲んだ
し。」

嘘をついているのがつらかった。

でも今日のところは噓をつき通そう。

ゴルフ場に到着しレストランで朝食をとっていると、私からのLINEを見た友人たちがやってきて、私の顔を見るなりすぐに彼の様子を聞いてきた。

私が送ったあの写真は一見、4人とも笑顔で楽しそうに映ってはいるけど、その中で彼の顔色だけが明らかによくなさそうなことは誰が見たってすぐにわかる。

「うん、まだ通院しながら投薬を続けているみたいだから、薬のせいで顔色
は悪くなっているけど、概ね元気になっているみたいだよ。
酒も飲んだし。」

同じ噓をついた。

心から心配してきている親友たちに嘘をつくのは本当につらかった。

みんなはもやもやしたものを持ちながらも、一応安心してくれたみたいで、ゴルフもいつものように楽しく回って解散した。

帰宅後、私は今日プレーした8人のスコアがプリントされた表を写真にとって彼にLINEで送った。
ゆっくり養生して、7月のあけくれ会を楽しみにしていますと書き添えて。

彼からは「早くみんなとゴルフ出来るよう治療に専念します」と返信があった。

5月7日の彼とのLINEのやり取りは悲喜交々だった。

「5月1日抗がん剤治療の結果癌細胞0寛解にたどり着きました。」
「それはよかった‼ 退院はいつですか?」
「しかし、副反応で肺炎が悪化し、今は酸素吸入なしで生活が送れない状況
です。
あと10日くらいは入院になりそうです。
また、体力の回復は元の木阿弥。」

「ゆっくり養生して、万全を目指しましょう。」

この私からの励ましに対して、彼はおどけた絵文字で「がってんだ!」と返してくれた。

10日くらいの入院と聞いていたが、5月21日の夜になって彼からあけくれ会のグループLINEに投稿があった。

それは7月のあけくれ会中止の知らせであった。

「白血病を再発し、治療中に肺炎を発症、酸素吸入器につながれて寝たきり状態。2日くらい前から筋力低下、自立歩行不能。」

痛々しい現況を本人の言葉で会のみんなに伝えてきた。
悲痛な叫び声のような文字だった。

「酸素吸入器が取れてリハビリを開始できたとしても7月には間に合わないので、中止を決断しました。」

あれほど楽しみにしていたのに。

7月のあけくれ会に参加することを目標に、そこに照準を合わせてすべての希望をその日において辛い治療にも耐えてきたのに。

自ら中止を伝えるこのLINEによって、会の仲間たちにも少なからず動揺が走ったようだった。

彼が白血病だということは知ってはいても、4月に再入院したことまでは知らなかったメンバーや、再入院したことまでは知っていても順調に回復しているとばかり思っていたメンバーたちが次々にこのグループLINEに励ましやいたわりのメッセージを書き込んで送ってきた。

でも、私は何も返すことはできなかった。

次の週の快晴の日に、私は女房と義母を谷津バラ園に連れて行った。
今が満開の盛りの谷津バラ園は平日の午前にもかかわらず、たくさんの来場者でにぎわっていた。

コロナ禍になってからは思うように外出ができずに、部屋でひとりふさぎ込む日が多くなった老齢の義母は、満開のバラをみて存分に楽しんだ様子だった。

その日の夜に、私はバラ園で撮った写真の中から特によく撮れたバラの写真数枚を、今が満開ですとのコメントと共にLINEで彼に送った。

翌日彼から返信があった。

「真紅の薔薇。パワーもらいました。ありがとうございます。」

何とはなしに彼が快方とは逆の方向に向かっているような、そんな嫌な予感が重苦しく胸に迫りつつあった。

大丈夫だろうか。

私は彼が再入院してからは努めて普段の何気ない話題を、タイミングを見て送るようにしていた。

苦しい治療を耐え抜き、ようやく退院してお酒が飲めるようにまで回復したと思った矢先に再発を知らされ、つらい抗ガン治療が再開し今は肺炎で寝たきり状態になっている。

嫌というほど十分に頑張っている彼に対して、さらに追い打ちをかけるように「頑張れよ」とはとても言う気にはなれなかったからだ。

5月31日、私は早朝にLINEした。

「おはようございます。ジムに通い続けて明日で7年目に入ります。
たったの週一回、40分くらいのマシン筋トレですが、継続は力なりで結構筋力ついてきました。
小さなことからコツコツと行きましょう。」

すると彼はわずか8分後に返信してきた。

「オー了解だべ。
まだベッドから降りることが出来ん。
要介護4か5だな。
まだまだやけどじきに何とかなる。
大丈夫、あしたは浮いたか瓢箪なんで、絶対に沈まへんよ。
応援アザース」

そしてベッドの上で自撮りした、酸素チューブにつながれて少しむくんだ顔が映った写真を送ってきた。

返す言葉が見つからない。

でもこの写真に何か言葉を送らなければと思い、精一杯ひねり出した言葉が彼とやり取りした最後のLINEとなった。

「かざぐるま かぜがふくまで ひとやすみ」

5.星に帰った我が良き友よ

6月12日日曜日午後4時

地元のセレモニーホールのせまい霊安室に10人近くの親友たちが集まって、変わり果てた彼との対面を果たした。

その日の朝、彼の奥さんから私の女房にかかってきた電話の内容を、親しい友人たちに知らせていたので、病院から帰ってきた彼に会いに、みんなが集まってきたのだった。

そこでは彼の奥さんと長男が私たちを迎えてくれた。

すすり泣く声が聞こえる中、亡くなるまでの様子を奥さんが気丈にも語ってくれた。

入院中は毎日、朝昼晩とビデオ通話で話していた。
最近ではコロナピーク時とは違って家族2人まで30分以内の面会ができるようになっていたので、数日前はうな重が食べたいと言うので買って持っていき、次には焼き肉が食べたいと言うので買って持って行った。
そして昨日はかつ丼が食べたいというので持って行ったりしていたので、今朝3時ころに病院から電話があり容態が変わったので来るようにと言われたときには驚いた。
たまたま家にいた三男の運転で急いで病院に行くと、ちゃんと喋れるしいつもと変わらない様子に見えた。
三男と二人で彼の左右の手を握りながら、しっかりしてね、大丈夫だからと声をかけると普通に話していたのだが、ふと、俺死んじゃうのかな、死にたくないよ、と言ったという。
励ましながら会話を続けていたが、握る手の力が急に弱くなったと思ったら、すべてが終わっていたという。

それが彼の最期だった。

そうか、最愛の家族に囲まれて、手を握り合い語り合いながら天国に旅立ったんだな。

それはよかったな。

通夜は6月16日に営まれた。

ちょうど一年前の6月16日、私は彼に家まで迎えに来てもらって二人でゴルフ場に向かい、仲間たちとの楽しいひと時を過ごした、まさにあの日だった。

あれから一年。

一年後に彼の通夜を営むことになるなんて、誰よりも元気で豪快な彼の通夜を。

通夜の式場では彼の生前のたくさんの写真をスライドショーにしてモニターに流していた。
その写真の多くに、私は彼とともに映っていた。

彼と共に歩んだ人生だった。

通夜に引き続き葬儀・告別式は無事に終わり、式に参列した友人たちの多くが火葬場まで行き、彼が天に帰っていく姿をともに見送った。

私は見知らぬ女性の参列者の方とふたりで少し大きな骨を箸で拾って持ち合いながら、落とさぬようにゆっくりと骨壺に収めた。

彼は天に帰った。
いや、きっと彼は星に帰ったのだろうと、骨壺のふたが閉められた時にそう思った。

そして夜空のどこかで今夜から輝き続けているはずだ。

親友を失うということは、父母を失ったときとは全く違う種類の喪失感に襲われるものだということを初めて知った。

ふと多くの友人たちを見まわしてみると、みなそれぞれにつらい経験や厳しい波風を受けながら、62年の月日を過ごしてきている。

でも、こうして彼の葬儀で顔を合わせると、みんな一瞬にして昔のままの距離感の会話に戻って笑顔で語り合うことができる。

私は彼の死後、女房に今まで以上に優しく接しているような気がする。

私も女房や子供と手を握り、最後まで会話しながら天に帰ることが出来たら、どんなに幸せなことかと、彼の死は教えてくれている。

葬儀の二日後、私は女房と一緒に彼の自宅にお邪魔して、飾られた祭壇のにこやかな彼の遺影に線香をあげ、手を合わせながら心の中でつぶやいた。

先に行ってしばらく待っていてくれ。

そのうち俺も行くから、そうしたらあの時プレゼントしたグローブを手にはめて、また一緒にゴルフやろうな。

第一打のOBあとの豪快な笑い声を聞きながら。

また会おうぜ、我が良き友よ。


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