にくたらしいくらいカワイイ奴ら

オレは2年前まで、そういう関係性の子共が2人いた。当時は小学一年生と幼稚園の歳だった。

〈にくたらいしいくらい〉がくっつくのは、相手がそこにいるからだ。普通の幸せな身近な距離感に子供がいる時に感じる感情だ。
会話の時だけ出てくるヤツだ。

離婚して以来、約2年間連絡を取れていない。
今は距離感が遠いから〈辛くなりそうなくらい〉かわいい…とか、〈悲しくなりそうなくらい〉かわいい…という表現になる。

ただ、それで気づいた事がある。
2年経っても〈かわいい〉という気持ちの強さが変わらないという事だ。
初めは〈だんだんと子供がいない現実に慣れるに従い〉気持ちが薄れていくのだと思っていた。
でも、その気持ちは薄まる事なく強いままだった。

多分〈かわいい〉と〈愛している〉は同義なのだろう。何というか余分な感情が付着してない〈純粋な気持ち〉のような気がする。〈全ての元となる気持ち〉のような気がする。

逆に〈子供に会いたい〉という気持ちには、強くなったり弱くなったり変化した。多分〈会うという行動〉のフィルターが純粋な気持ちを曇らせる。
〈今さら会いに行っても会わせてもらえないのでは…〉とか、〈逆に子供の心の成長に悪影響なのでは…〉とか、いろいろな不安や執着心が〈会いたい気持ち〉を強めたり弱めたりする。

子供からは、本当にいろいろな事をおそわる。いろいろな事に気づかされる。

そういう事をぼーっと考えていると、自分の両親のことを思い出す。
彼らも〈オレや姉ちゃん〉を通して、人生に必要な事に気づいていったのだろう。

そういう事を順番にバトンを渡して、いちいち立場を変えて、学び合っているのだ。

そもそも〈命〉はバトン渡すように受け継がれるものだ。

オレの子供は、オレと元奥さんの命がバトンを繋いだ結果で、それはじいちゃん…ヒイじいじゃん…と、膨大な数の祖先の命が、数十万年の間バトンを繋いできた結果だ。

だから、オレの〈子供の命〉は膨大な数の祖先の命でできている事になる。
膨大な数の〈愛〉で出来ている事になる。
膨大な命の結晶なのだ。宝石みたいだ。

そりゃあ〈愛したく〉もなる。かけがえのない価値を感じる。

だから〈我が子への愛〉は誰もが持つ〈普遍的な愛〉になる気がする。見返りが無くてもいいパターンのやつだ。

この種類の愛を強く感じられる関係性は、親子関係だけだ。つまりその愛を与えられる人間は限られているのだ。代わりが効かない。

だから、オレは勇気を出して子供との距離感を近づけようと思う。
君たちの命の中には、たくさんのジイちゃんバアちゃんの命がギュッと詰まっているという事を伝えなくてはいけない。

本当はもう全て〈無かった事〉にして、忘れて思い出さないようにしていようと思っていたけど、当てが外れた。

時間が経っても〈愛の量〉は変わらないのだ。薄れないのだ。〈無かった事〉には出来ないという事になる。
だから怖いけど逃げない事にした。だいぶ時間はかかったけど、しょうがない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?