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当麻の記憶#4 戦後開拓の昔話

当麻鐘乳洞のある開明地区は、元陸軍の軍用地で戦後に開拓されました。
開明1区で農業を営む池沢和義さん(昭和18年6月13日生)は、樺太の留多加(ルタカ)生まれ。昭和23年に当麻へ引揚者として移り住みました。昭和20年の引き揚げ船に乗船し、日本に帰国をする予定だったそうですが。申し込みが遅れ3年遅れで日本の地を踏んだとのこと。実は乗り遅れた昭和20年の引き揚げ船は留萌沖でソ連の潜水艦に攻撃を受けて沈没しています(三船殉難事件)。もし申し込みが間に合っていればこの世にはいなかったと池沢さんは話します。
軍用地だったため住宅も無かった開明地区に移住した池沢さん一家は他の引き揚げ者とともに、3棟あった旧陸軍兵舎の一つに間借りする形で居を構えました。長屋の兵舎は薄いベニヤ板で仕切られ、隣の住民の話し声も筒抜けだったそうです。兵舎は半分が住居、半分が共有の土間になっており、長屋に住む子どもたちが集まり遊んでいました。3棟のうちの一つは開明小学校の仮校舎として昭和24年まで活用されていたとのことです。

住宅として使用された旧陸軍兵舎


兵舎を仮校舎とした当時の開明小学校の平面図


屯田兵が入植して既に50年以上が経過していたこの頃、まだ沼地で立ち木ばかりだったこの地を開拓し、始めは食料もあまり収穫できなかった苦しい生活は屯田兵入植当時と同じだったのではないかと池沢さんは振り返ります。
終戦後もしばらくの間、当麻町の上空を米軍の飛行機が飛ぶ姿がありました。池沢さんのお父さんは万が一のために防空壕を作り、B―29が飛来した時には家族で避難したそうです。その後使われることはありませんでしたが、昭和29年に発生した洞爺丸台風では避難場所として家族を守ったとのことです。
米軍の飛行機が2度、開明の奥地に墜落したことがありました。大沢ダムの奥と屏風山、池沢さんの話によると煙を出しながらガラガラと大きな音を立
て墜落していったそうです。今でも形跡が残っているかもしれないとのことですが…。

米軍の飛行機が墜落した屏風山


池沢さんの現在の住居裏にある月形山は空港建設の話があったそうです。滑走路が足りなかったため建設を断念、その後東神楽町に空港が建設されました。もしかしたら旭川空港が当麻にできていたのかもしれません。
上富良野町の自衛隊駐屯地を作る前に、開明地区に駐屯地を作る計画もあったそうです。軍用地だったことが起因しているのかもしれません。もし空港があって駐屯地があったら、今の当麻町は全く違う町になっていたのかも…と池沢さんは話します。

月形山には空港を建設する話が合ったのだとか…


石渡からのきれいな清流が流れる開明地区。池沢さんが子どもの頃はここで泳ぎ、魚釣りをしていました。田んぼにはたくさんの蛍が飛び交っていたそうです。今も自然のまま美しい風景が残るこの場所には、町内外から釣りをする人が訪れるそうです。2年前には池沢さんの田んぼで小さな光を発しながら飛ぶ蛍の姿も見たそうです。

きれいな清流がある石渡川