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開駅100年 伊香牛駅の記憶を辿る

 明治22年から24年にかけて開削工事が行われた北見道路(現在の国道39号線)。この道路沿いに広がる伊香牛地区は道路の開通とともに徐々に開拓の鍬が降ろされていきました。明治37年には細野亀多六氏(嘉永4年~大正10
年)が伊香牛の永山兵村財産地を買収。これを皮切りに現在の伊香牛3区に宮城県から小作人が入植し細野農場を開拓していきます。ここから国道沿いにはさまざまな業種が開業、さらに「伊香牛地区に鉄道が通る」という噂から伊香牛市街地区は発展していったと郷土史「礎」(当麻町郷土史研究会発刊)に記述されています。
 当時は細野農場を含め、伊香牛地区の農産物を伊香牛駅から出荷。駅前には検査所が置かれ、輸送を請け負う運送会社もありました。現在の伊香牛駅舎は2代目の建物ですが、真迎えにある当麻農協の2棟の倉庫(昭和2年と昭和34年に建築)が物流の拠点だったことを物語っています。駅横には国鉄官舎が何棟もあり、多くの国鉄職員の家族が住んでいました。今は無人駅ですが、当時は駅員だけでも5、6人は常駐し、切符売り場や荷物の受け入れる場所も存在していました。

伊香牛駅前にある農協の倉庫


 国道から駅に入るために掛けられた橋が少し高く、渡れない馬がいると荷物を積んだ馬が何頭も国道に溜まっていたと話すのは、生まれてからこの地区に住み続け、時代の移り変わりを見てきた宮崎義夫さん(昭和12年9月11
日生)。伊香牛駅周辺は駅前通りとして非常ににぎわっており、雑貨屋や薬屋、鮮魚店、豆腐店、菓子店のほか映画館(劇場としても利用)もあったそうです。また夏の終わりには駅前で地域の盆踊りも行われていました。

にぎわいのあった伊香牛駅前通り


先代の伊香牛駅


 戦時中、この地区から出兵する人は伊香牛駅から列車に乗り、戦地に赴いていったとのこと。当時は授業中であっても全校生徒が駅へ足を運び、「勝ってくるぞと勇ましく…」と口ずさみながら送り出したそうです。当時はまだ小学校低学年で記憶していることが少ないという宮崎さんですが、通学路として使っていた国道39号線で空襲のサイレンが鳴ると、道路の側溝に横になって隠れたことははっきり覚えていると話していました。


旧伊香牛小学校(現在はかたるべの森美術館)のグラウンドでパークゴルフを楽しむ宮崎さん


 現在、かたるべの森美術館として活用されている旧伊香牛小学校は3代目の校舎。宮崎さんは2代目の校舎に通っていました。昭和27年に、柏ケ丘に当麻中学校が完成するまで、各地区の小学校は中学校分校としての機能も備えていました(統合の年は学校によって違います)。当麻中学校伊香牛分校は、中学3年生になると北星分校からも一部生徒が登校し、学びを共にしていました(北星分校は中学2年まで。3年になると居住地により当麻中学校と伊香牛分校に分かれていました)。
 昭和11年に建てられた2代目校舎は昭和52年まで地域の子どもたちを育ててきました。この校舎は、昭和47年から7年間、同校の教員として在籍していた故 高野哲氏が精密な模型として復元。現在は、伊香牛ぷらっとホールでその姿を見ることができます。

伊香牛小学校2代目校舎の模型(伊香牛ぷらっとホールに展示)