嘘の家族を作っていたのはわたしだった

 機能不全ぎみの家庭に生まれ、わたしは幼い頃から親の顔色を窺うのに必死だった。仲良く、平和で、楽しい家族。それを装うのに必死だった。

 幼児の頃は父親によく懐いている子どもを演じていた。家庭の中で父が最も怖く、空気を支配していた。そこで父親がわたしを可愛がりたいという空気を察して、自ら父親に遊んでと言いに行っていた。もちろん機嫌が悪そうなら近づかない。そうするうちに、家族はもちろん、親戚、近所の人にも「父親っ子の娘」というのが印象づけられていった。

 小学校高学年になるころ、自分の部屋が与えられた。けれど、そこに篭るということはしなかった。家族はリビングで団欒しているもの。そういう固定観念があったから、自室にいる時もドアを少し開けて、いつでも家族が呼ぶ声を聞けるようにしていた。主には父親の声を無視しないためだった。無視したら怒鳴り出すだろうと思っていたから。

 本当は、こんな家族バラバラになっちゃえと思っていた。バラバラに、というのは、父親とさえ離れられたら良かったのだけれど。けれどわたしの行動は、そんな考えとは反対に、仲の良い家族をアピールするようなものだった。学校でも家族の話をする。それは大学に入って県外に出ても続いた。

 だからわたしは、遠くから見たら仲良し家族のもとに生まれたように思えるだろう。わたしはそうは思わない。けれど、わたしの深層心理は、仲良し家族であってくれと願ったのだろう。だから仲のいい家族がやることの、表面だけをなぞった。家族LINEを作って、帰省するたびに家族と出掛けて、家族ってこんなことするんだろうな、ということを。でも本当はやりたくないことでもあった。帰省したあと、いつも体調が悪かった。

 今は実家やその後の大学で無理をしたせいか、うつ病になり長引いている。その過程で、家の問題も根っこにはあると考え、特に悪影響の大きい父親とは近づかないようにしている。母親も、わたしの話を聞いて離婚しようと考えたらしい。母親はときどきわたしに会いに来る。両親は一応一緒に暮らしてはいるが、会話はないらしい。母親は自分の部屋に篭っていると言っていた。それを聞いて心が痛んだ。会話のない家族、それはわたしが避けたかったものだ。自分の気持ちに嘘までついて、病気になってまでも、普通の仲良しな家族でありたかったのだ。そうしなければ、わたしは「普通」でなくなってしまうと思っていた。しかし、両親はあっさりと無言の関係になってしまった。父親がどう思っているかは知らないけれど、母親はもう離婚するんだから当たり前だというような感じだった。

 夫婦は自分たちの意思でなるものだから、離婚するとなったらそうなるのかもしれない。しかし家族は選べない。特に親は。だからわたしにとって家族というものの形が大切だった。わたしには普通の家があるのだと思い込んでいたかった。だからテレビドラマや本で見たような、「普通」の家族を必死で演じていた。他の家族は、それに乗ってくれていたのかもしれない。わたしがいなくなってから、家族は目に見えるように壊れていったから。

 わたしが家族を壊してしまったように思う。でもそれは、そもそもわたしが作った嘘の家族で。本当の家族なんていなかったのだ。血が繋がっただけの、同じ戸籍に載っているだけの他人が同じ屋根の下に暮らしていただけに過ぎない。それだけでは家族とは呼べない。家族になるために必要な、信頼とか助け合いとか愛情とか、そういったものはわたしの作った嘘の家族にはなかった。同じ家で暮らしていた人たちにはなかった。それを見て見ぬふりをするために、わたしはずっと自分の気持ちを無視していたのだ。

 実家では十八年間暮らしていた。そのほとんどを家族擬きを作るために費やした。それは本来使うべきではなかった力だ。だからわたしは病気になった。乱暴な理論だけれど、大外れというわけでもないだろう。だから今、エネルギーが枯渇して休んでいる。元に戻るまでに、実家で過ごしたのと同じかそれ以上の年数を費やすかもしれない。元に戻ることさえできないかもしれない。それはわたしが、自分の家族の嘘に向き合わなかったせいでもある。嘘をついていたけれど、謝るべき相手はいないと思う。一緒に暮らしていた人たちは、本来本物の家族であるべき人たちだったから。けれど、彼らを責めたりするのも違うと思う。家族擬きを作っていたのはわたし自身だから。だから、自分が作らざるを得なかった嘘のこと、それで得たものと失ったものについて考えなければならない。病気が治るのを待たなければならない。

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