大人になんかなりたくない

 どうなったら「大人」なんだろう?18歳になったら?二十歳になったら?自立して働いたら?結婚したら?子どもを持ったら?

 答えなんてどうでも良いけれど、わたしは大人になりたくない。なれないとも思う。

 なぜならわたしには子ども時代というものがなかったと思うから。子どもの成長に必要だと言われる、自分の感情を素直に出すとか、養育者に甘えて安心感を得るとか、守られるとか、そんなことしたことやされたことがないから。

 物心つく前はどうだろう。イヤイヤ期はあったけど、激しくはなく、その頃には普通に話していたから理由を述べて嫌だと言っていたらしい。それなら子どもらしく過ごしていたと言うべきか、適切なタイミングで言葉を習得していないために既に原初的な感情を出せなかったと言うべきか。このエピソードを聞いて、少なくとも物心ついて以降のわたしは絶対にそれをしないだろうと思った。

 物心ついてからしばらくは、保育園で浮きながらも良い子のふりをし続け、家庭では親の顔色を窺う日々だった。とにかく父親が怖かった。ちょっとしたわがままが父親のスイッチを押し怒鳴られるかもしれない。何が食べたいとか、疲れたとか、どこかへ行きたいとか、そういったことも全て親の顔色を見て口にしなくてはならなかった。その時にはもう欲しいものも分からなくなっていたような気がする。本は好きだったけど、それ以外のおもちゃをねだるのはわがままだと思っていた。だから何か欲しいとはあまり言わなかった。

 小学生になってからは、学校に行かせてもらってご飯を食べさせてもらって、送り迎えをしてもらっている、それが親からしてもらっていたことの全てに思えた。それだけでも十分ありがたいし、何なら送迎や家事はわたしが頑張れば済むことなのにやらせてしまっていると思っていた。出来るだけ家事を手伝った。今よりはるかに掃除洗濯、料理やなんかは出来たと思う。
 そして同時に両親の愚痴を聞く係になった。父親は酒を飲んで仕事の愚痴を話した。大抵部下か上司の悪口だった。大人になるということが怖かった。大人になるということは、こうやって毎日悪口を言われることに思えた。
 母親からは仕事やわたしたちの学校関連、そして父親の愚痴を聞かされた。本当に大変だと心底同情した。
 わたしの愚痴や弱音を聞いてくれる人は誰もいなかった。学校の怖い先生のことも、友達に揶揄われていることも、何も話したことはない。そんなの迷惑だと思ったから。

 そんなふうに、実家にいる間はずっと子どもではない何かの役割を押し付けられていたように思う。大人という訳でもなく、便利屋、ゴミ箱、そういった類の、少なくとも大事な存在に対して取る態度はなかった。誕生日とかにとってつけたようにレストランに連れて行かれてプレゼントを渡された。そういうのが嬉しくなかったのも、今思えば付け焼き刃の家族ごっこだと感じていたからかもしれない。その時はこれを喜べない自分が悪いと思って、精一杯嬉しい演技をしていた。

 大人にはなりたくない。だってもう疲れたから。また愚痴を聞いたり言ったり、誰かを蔑ろにしたり、ひとりをゴミ箱にしたりそういう生活に戻るのは御免だから。責任感がないとか好きに文句を言ったらいいと思う。ただもう疲れた、もうやりたくない。「人間」として生きるということはあの家庭に戻ることのように思える。だからもう人間を辞める。

 「真っ当な」子ども時代とはどんなものだろう。少なくともわたしにはそんな生活なんてなかったと思う。他の人がどうかは知らないけれど、わたしが今社会不適合者として生きているということは、大体の人はある程度真っ当な子ども時代を送ってきたのだろう。もしかしたら普通の大人になるために、子どもや自分より弱い人をゴミ箱にしているのかもしれやいけれど。

 そんなのになるくらいなら大人にならない。出来ればもう許して欲しい。子ども時代は帰ってこないのだから、社会に適合出来ないことも許して欲しい。

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