医者に死なないでねと言われるときに失われていく何か

 精神科で、少し死にたい気持ちは残ってるんです、という話をしたときには、決まって「死なないでね」と言われる。わたしはどうしてか、「はい」とはっきり答えてしまう。
 そして診察室を出てから、どうしてはいと答えてしまったんだろう、と悲しくなる。死なないでねなんて約束は卑怯だ。イエス以外の答えを拒絶する言葉だ。

 わたしはずっと辛さを隠して生きてきて、そのことは心理検査の結果にも出ていたのだけれど、それはつまり自分という存在が受け入れられるのだろうか?という不信感があるということなのだと思う。弱っている自分や、悪い自分を見せたらみんなに見捨てられてしまう、お母さんにも心理士さんにもお医者さんにも。そう思っている。

 だから今もお利口さんにしている。心理士さんに対しては、隠しがちだった気持ちを少しずつ言葉に出来ている。でもまた自傷してしまったとか、そんなことを言えなかったりする。
 お医者さんの前ではもっとお利口さんになる。調子はまあそれなりです、と言って、お医者さんの話にうんうんと真剣に頷いて、死にたいこととか自傷のこととかは話さない。ちょっと消えたい気持ちがあるんです、とだけやっと言える。そうしたら死なないでねといわれる。だからわたしは拒絶されたと感じて、きっと次の診察でも同じようにするのだろう。
 お母さんの前では死にたいなんて絶対に言えない。また未遂したり自傷したりしたら、いつか呆れて見捨てられるかもしれない。それが怖くて、良くなった面ばかり強調して、未来の話ばかりする。

 でも本当は、辛くて弱くて矛盾だらけのわたしを受け入れて欲しい。何をしても赦してほしい。全てを受け止めて欲しい。辛いからと剃刀で腕や脚をめちゃくちゃにして、高い建物を見るたびにここから飛び降りれるだろうかと考えて、特急が来るたびに飛び込もうか悩んで、余った薬を全部飲んじゃおうか悩んでいるわたしを受け入れて欲しい。そんなことしちゃダメだよ、なんて言わずに。死んじゃったら悲しいよなんて言わずに。

 ありったけの勇気を振り絞って助けを求めて、やっと問題に気がついて、受け入れて欲しいと思って、そのために頑張ろうとなけなしの希望を抱いているのに、小さな拒絶の言葉だけでその希望はどこかへ消えて心の扉は閉じてしまう。

お医者さんの、死なないでね、という言葉で、死が少しずつ近づいてくるような、そんな気がする。

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