やっぱり「生産性」なきゃ駄目ですか

 賑やかな所に一日いただけで、疲れ果てて3日は寝込む。鬱々とした気分のまま、SNSをひたすら巡回して、また落ち込む負のループ。仕方ないから余った眠剤を飲んで眠る。夜中に起きて、また薬を飲んで。そうしてやっと、少し動けるようになる。

 その間にも、働いたり勉強したり研究したりしている知り合いのことを思い浮かべる。わたしは何も出来ていない。みんなは頑張っているのに、それなのにわたしは。こんなの意味のない考えかもしれないけれど、でも、鬱の思考は辞めようと思って辞められるものじゃない。

 わたしは「自分に金がかかっている」というのがプレッシャーに思える。親が支払ったこれまでの養育費、色んなところで使った税金や保険料。それに見合った人間になんてなれていない、と思う。だから苦しい。もう辞めさせて欲しい。

 父親は家庭で何度も「誰が出したお金だと思っているんだ」と口にしていた。家や家電やわたしの教育費のことだ。それで父親に逆らうことはできなかった(成人してから家のローンもほとんどの家電もわたしの教育費の支払いも母親がしていたと聞いて、ほんとうに呆れた)。
 そんな母親は、無邪気というか天然というか、物事を深く考えないひとだった。だからテレビに映る有名人の豪邸やファーストクラスの映像を見てはいいなあ、と言い、わたしの同級生の父親が医者や社長だからあの子の家は凄いと何度も口にしていた。いつか海外旅行に行きたいというのが口癖だった。〇〇さんのところの息子さんは私立大に行くんだって、お金持ちだね。うちは国立しか無理だから。そんなことを言われて、我が家はカツカツの状態なのにわたしに沢山の教育費を使っているんだと思った。ずっとずっと申し訳なかった。勉強にやる気が出なかったとき、たまに遊びに出かけたとき、わたしはなんて親不孝なんだろうと思った。
 結局、我が家は世帯年収に換算すれば上の方になるのだ、と分かったのもずっと後のことだった。


 我が家は全体的にコミュニケーション不足だったのだと思う。機能不全家族だった。お金の話ひとつとっても、これだけのすれ違いがあるのだから。

 そうやって他のものもたくさん積もり積もって鬱病になったあと、父親とは縁を切り、とりあえず母親がたまに面倒を見てくれるようになった。その時も、「焦らなくていいよ。30歳までに働ければいいんだから」「人に迷惑をかけないで、税金を納められるようになったら十分だよ」と言われた。
 鬱になってから、働ける気が全然しなかった。就活すら出来なかった。社会に出ても家庭環境由来のトラウマですぐに不適応を起こすと思っていたし、今でもそれがとても不安だ。一生働けないんじゃないかと怖くなることもある。それでも、母親は「働けさえすれば」と言う。

 じゃあ、働けなかったらどうしたらいいんでしょうか?税金を払えなかったら?死ぬしかないのでしょうか?生きてる価値なんてないですよね。

 働けなくたって人権があることは分かっている。でも世間はそうだろうか。生活保護のひとには冷たい視線を向け、子どもを作らないひとたちに日本を滅ぼしたいのかと言う。それは一部だとしても、薄らと「働いてないなんて」という空気が世の中を支配している。

 母親だって、深い意味があって言った訳じゃないだろう。少なくともわたしを傷つけたり、働けない人間になったら許さない、というつもりだったわけじゃないと思う。でも無意識に、「人間の最低ラインは働くこと」「子育てのゴールは子どもが労働者になること」と思っていたから、わたしにそんなことを言ったのだろう。

 そんなこと関係なく、生きているだけでいいって言って欲しかった。それを言ってくれるのは親だけだから。でもそんな言葉は今まで一度も与えられることはなく、わたしの心に穴は開いたままで、生産性のない人間になることに怯え続けている。条件付きで生かされていることの恐怖がわたしを苦しめる。


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