大事にされたことってありますか

 誰かに大事にされたと思ったことはありますか。カウンセラーさんにそう聞かれた時、わたしは黙り込んでしまった。

 大事にされる?大事にされるって、どんな感じですか。やっと振り絞った答えに、それは人それぞれだよ、と言われた。

 それならわたしの感覚で思い出してみる。わたしは大事にされたことがあるだろうか?ない、と思った。

 優しくしてもらった、と思ったことならたくさんある。励ましてくれたひと、応援してくれたひと、一緒に喜んでくれたひと、手伝ってくれたひと、助けてくれたひと。でも、「大事にされた」か?というと、首を横に振ってしまう。

 優しさと大事にすることの違いは何だろう。とりあえずchatGPTに聞いてみた。

優しくされることと大事にされることの違いは、微妙な違いがあります。優しくされることは、他人から親切に扱われることを指します。一方、大事にされることは、自分自身が重要視され、尊重され、愛されることを意味します。優しさは日常的な親切や思いやりを表す一方、大事にされることは深い愛情や尊重を受けることを含みます。

 わたしは、色んなひとから優しくしてもらった。それは親切心、善意の心、優しい心から来るものだ。困っている人がわたしでなくても、そのひとはおそらく同じことをしただろう。

 わたし自身を特別な存在として大事にしてくれると考えられるのは、第一に親だろう。しかし、わたしは親からのその行為を受け取れなかった。
 例えば母親は、わたしが幼い頃から健康や教育に気を遣ってくれていた。しかし、それはわたしがそれをお願いしたり望んだからではなくて、これが「良い」子育てだからそうしている、といえふうに感じた。もちろんわたしの事を考えてしてくれたこともたくさんあるだろう。
 しかし、わたしは母親に裏切られたと思ったこと、大事にされなかったと思ったことが何度もある。父親に理不尽に怒鳴られている時に助けてくれなかったこと。それとなく父親と離れたいと言っても気付かれなかったこと。疲れたと言う母親を助ける為に頑張って手伝いをしたけれど、ただ助かるとしか思われなかったこと。話しかけたいと思ったときにゲームをしていたこと。一つひとつは小さいことだけれど、積もり積もれば大きなものになる。だからお母さんがしてくれたことは、優しさであってもわたしのための特別な行動だとは思えなかった。手伝ってくれてありがとう、と言ってもらえたときも、例えば職場の人に言うのと同じ温度だと思った。
 わたしは大事にされていない。そんなふうに思ってしまったから、母親がしてくれること全てに罪悪感を抱いていた。疲れているのに塾の送迎をしてくれること。たくさん学費を払ってくれること。もういいよ、と何度も言った。苦しかったから。でも心配だから、と止めることはなかった。
 きっと母は母なりにわたしを大事にしてくれていたのだと思う。そして覚えていないくらい幼い頃には大事にされたと感じたこともあったのかもしれない。しかし、その感情は日々の小さな、時には大きな裏切りによって崩れていってしまった。その後にどんなに取り返そうとしてくれても、もうわたしは「大事にされる」というのがどんな感覚なのか分からなくなってしまった。

 そんな話をカウンセラーさんにしていたのだけれど、それに対してアドバイスやこれからこう言うことを話したり行動したりしていきましょうという指針のようなものを示してくれることはなかった。ただこれらの具体的なエピソードを話しただけだ。これまでもずっとそうだった。

 だから、この「大事にされなかった」とか、「ひとりぼっちだと思った」とか、わたしが抱えたトラウマはわたしがどうにかしなければいけない問題なのだと思う。今度からは、本や論文を読んでそれをまとめる形にしていこうと思います。

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