怒り(個人の考えです)

 (個人の、そして知識も経験も至らない人間の、ちいさなひとりごとなのだけれど、やっぱり大事なことかなと思うので書きます)

 SNSはどうしても、断定口調や「必ず」とか「絶対」とか「一番」みたいな言葉が入っているほうが広まりやすい。きっと分かりやすいからだと思う。

 そして感情の中でいちばん広まりやすいのは怒りだ。SNSは何かへの怒りで溢れている。その日あったニュースは、政治のことから芸能やスポーツ、果ては一般人の起こした揉め事まであらゆることが怒りと共に拡散される。

 Twitterは最近再び、フォローしていないひとのツイートも流れてくるようになったから、それをまた感じるようになった。

 アカウントが変われば流れてくる意見も変わる。でも必ず怒っているひとがいる。しかも、建設的な批判、というよりはほとんど罵倒に近い言葉で、あるいは嘲笑に近いトーンで。

 そういうツイートを見るのがあまり好きではない。

 理由のひとつは、やっぱり怒っているひとは怖いから。誰だって良い気持ちはしないだろう。私は父親に怒鳴られたことがトラウマのひとつなので、余計に怖く感じる。

 ふたつめは、その怒りはなんのために、誰のために、ということが分からなくて怖いから。怒っているひとは、大抵、世の中のいろんな出来事に対して怒っている。まるで誰かが怒っているから一緒に怒るとか、誰かに褒められるために怒っているかのように。そういうひとの呟きをちらりと覗くと、タイムラインが怒りで埋まっていたりもする。どうしてそんなに怒るんだろう?ストレス発散、何かへの防衛、社会への恨みや不満、だろうか。もしそうなら、いちどインターネットから離れて、休んだり大事なひとと過ごしたり楽しいことをしたり誰かに助けを求めたりして欲しい。怒る前に、どうしてこんなに怒るんだろう?と立ち止まってみて欲しい。それは苦しいことだと思うけど、でもいつか楽になるための一歩になるかもしれないから。もしそれらを試して無駄だったと思ったのなら、ごめんなさい、私だってそんな社会の一員だ。だから黙れなんて言う気はない。

 そして一番は、怒っていること自体への自省がないことが嫌だ。その怒りは誰を批判し、誰を傷つけているのか。怒る、ということは自分が正しく相手が間違っている、と思っているということだ。その根拠はあるのか。間違いに対して怒りの程度は正当か。自分が間違っていた時、どのように責任を取ったり謝罪したりするのか。反射的にたくさんのことに対して怒っているひとは、そんなことを考えている時間など取ってはいないだろう。それは「叩く」「炎上」と呼ばれるものたちと同じだ。

 安全地帯から文句だけ言う。ひとりの呟き、ひとりのリツイートでも、集まれば物凄い数になる。相手の人生を変えてしまう。下手すれば殺してしまう。昔罪人に石を投げていたのと同じだ。自分の一投なんてかすり傷にすぎないと、みんながそう思っていたら人間は死んでしまう。それはそのひとの間違いに対して、相応の罰だと言えるだろうか?殆どの場合、やり過ぎだろう。というか日本は法治国家なのだから、そもそも私刑などしてはいけない。でもそんなことを考えていないから簡単に怒りのコメントをつけてリツイートするんでしょう。

 いやいや、そうじゃなくて、自分は社会を変えるために怒っているんだ、というひとたちもいるだろう。でもそれならあまり良いやり方とは思えない。最初に言った通り、怒っているひとに近づこうと思うひとは少ないだろう。自分が詳しくない問題について怒っているひとがいたら、「よく分からんけど怖いから近づかないでおこう」となる。そうじゃない?それにツイッターで現実が変わるなんてあんまりない。何かを真剣に変えるなら、大体の人間はひとつのことしか取り組めないし、人生の多くの時間をそこに費やすことになる。そこまで出来ないよ、というなら、頑張っているひとを探して色んな面で支援することは出来るんじゃないかと思う。怒りよりはマシな方法ではないだろうか。何故なら、さっき書いた通り、怒りは負の側面が大きすぎるからだ。人間の命を犠牲にしかねないから。

 その文句、怒り、本当に人を殺す覚悟で言ってるんですか?

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