どうしようもないことです

 ついうっかり高校同期と会う約束をしてしまったからお昼ご飯だけ食べて帰ってきた。ドタキャンしたらよかった、べつにふたりきりじゃなかったし。これを教訓に、今度から誘われても断ろうと思う。

 高校同期と会う、ということは、他の同期が今どうしているかについても聞かされるということで。やっぱり婚約や結婚、出産の話が多いし、華やかな業界に行った人もいる。もちろん、仕事で苦しんでいる人だっているけれど。

 わたしは結婚や子どもを持つことが幸せだと思わない。なぜならわたしがそれらを上手くこなせる可能性が限りなく低いからだ。機能不全家庭で育ち、親戚もみんな同じようなものだから、ある程度ですら「普通の家庭」というものが全く分からない。家に怒鳴り声が響かない家庭があるということが信じられない。父親の命令が絶対であるという不文律がない家庭が存在するということが信じられない。

 単純に交際だけでも、結局わたしに見る目もなければ人付き合いの才能もないことが分かった。

 わたしはたぶん、自分が思っているよりも理想主義者なのだと思う。

 交際にしても結婚にしても、「パートナー」と言うくらいだから互いに支え合って、して欲しいことやして欲しくないことを伝え、気遣いをするのが良いと思っていた。でもそこまで考えている人は少ないみたいだし、気遣いの度合いだって上手く合っていなければこれは成り立たない関係だ。

 仕事の面でも理想主義であるらしいと気がついた。お金を稼ぐとか楽したいとかよりも、人の役に立つことをしたいと思う。もちろんお金も労働環境も大事だし、パワハラがあったらその場から離れるべきだと思う。けれど、わたしは仕事をするなら、少しでいいから人の役に立ちたい。もちろん人の役に立っていない仕事も人の役に立っていない人もいないのだけれど、より弱い立場の人に寄り添うとか、そんなふうになりたい。だからお金や名誉や地位で仕事を選ぶことはないと思う。もしかしたら自分の為に、ゆとりのあることを最優先にするかもしれないけれど。

 思えば高校生の時から同じような夢を語っていた。その時は、まだ自分の抱える問題に気づいていなかったし、今よりもっと世間知らずだったから、純粋に知的好奇心を満たせるような仕事をしたいと思っていた。研究の中でも考古学や人類学に興味があった。哲学もいいなと思ったし、司書や学芸員の資格も欲しいと考えていた。でもやっぱり、人の役に立ってこそ、という思いはたぶんあって、それらの知識を世の中に還元する仕組みを作れたらなんてことも考えていた。

 高校生の頃から、たまにそんなことを口にしていた。そしたら凄いね、頑張ってね、と言われることが多かった。当時は純粋というか物を知らないというか、単にそれが嬉しかった。しかし今頃になって、「そんな面倒なこと/お花畑みたいなこと、しようともやりたいとも思わない」という意味も含まれていたのだろうと思った。
 もちろん凄いねと言ってくれた人たちも、そんなことを意識して言った人はほとんどいなかっただろう。でも、「凄いね」というのはひとごと、自分には関係のないことに対して言うことが多い。少なくとも、似たような志を持っていれば凄いねとか頑張ってねではなく、一緒に頑張ろうとか、もっと具体的な話になったはずだ。同じ学校、同じ学年なのだから、そんなふうに他人事みたいな言葉を選ばなくてもいい。それなのに凄いね、という言葉を選んだということは、自分はやらないけど、という意味が含まれていたのだろうと考えるのは不自然なことではない筈だ。

 高校生のわたしはどこか浮かれて夢を見ていた。きっと今も根本はなにも変わっていないのだろうと思う。

 「普通」の人が良いよね、と思うような人生、つまりそれなりに安定した職業について結婚して子どもを持ち良い家庭を築いて、みたいな人生には魅力を感じない。そんなの夢物語に思えるから。現実そんな甘くないよって。でももっと夢物語かもしれない理想を掲げて、心を壊してまでも努力しようとしている。最初からなにをどう考えたって、「普通」になれっこないのだ。それどころか、「ちょっと変わってる」にすらなれない。他の人とは交わることのない、ねじれの位置に存在しているみたいだ。

 だから人付き合いは最低限にした方がいい。少なくとも既に知っている人は。ああ、こんなにも孤独なんだってわざわざ再確認して落ち込む必要なんてないのだ。やりたいことをやりたいようにやれば良いのだから。

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