貴方は神ではないけれど
映画「デヴィッド・ボウイ ムーンエイジ・デイドリーム」の感想です。
ボウイのことは、映画ボヘミアン・ラプソディを通じてきちんと認識した。Under Pressureを歌っている人。しかし、例に漏れず彼の曲は知らず知らずのうちに僕の心に沁み込んでいた。いつかの幼い日に聴いたのだろう。
それでいくつかアルバムを聴いていた。お気に入りの曲は”Changes”、”Life On Mars?”、”Let’s Dance”あたりであった。なんとなくミーハーである。
“Andy Warhol”のアコースティックな雰囲気が好きでカバーしてみようかと思ってYouTubeを漁っていたら、物凄いライブ映像を見つけてしまった。90年代らしいアレンジに、棒立ちと激しいダンスを繰り返すボウイ。僕は彼の立ち居振る舞いに心を奪われた。
そんな訳で、ライブ映像が多いらしいこの映画を観に行った。ボウイの曲はそれほど聴き込んでいる訳ではない。それなのに最初の台詞だけでぶん殴られた。
目まぐるしく移り変わる映像と、それに重なるボウイの声。字幕を追い、歌詞を追い、ボウイの姿を目に入れ、その歌声を、その言葉を耳にすること、それはまるで椅子に縛り付けられたままひたすら殴られ続けたかのようだった。
すごいものを観ているんだ、という思いが溢れて何か湧き上がってくるみたいだった。言葉ひとつひとつを噛み締めたいのに、全然追いつけなかった。それなのに凄いと、それだけが分かった。
やっと咀嚼できた僅かなものを繋ぎ合わせてこの文章を書く。
印象的だったのはボウイの家族について語られた部分だった。暖かなコミュニケーションのない家庭。半分だけを共有する兄。その兄が発症した病。この病は遺伝的素因が大きいことが知られている。ボウイがその遺伝子を引き継いだかは全く定かではないけれど、彼の宇宙みたいな表現にはその片鱗があるのかもしれない、と思った。
人と関わらないと話しながらはにかむようにインタビュアーに笑顔を向けるボウイ。あの笑顔について、上手く言えない。本心の笑顔でもないように見えたし、けれどお世辞でもない、照れ隠しというのが近いのか、演技というのが近いのか、ボウイの表現物とボウイ自身が入り混じった笑顔だと思った。
彼の眼に映っていた世界を我々は知ることはできない。彼の作ったたくさんのものを観ることは出来る。彼の語ったことを知ることはできる。しかし、だからといって、これっぽっちだって彼のことを「分かった」ことにはならないし、彼の観ていた世界を共有したことにはならないのだ。
まるで時代を映す鏡。未来を予見しているよう。宇宙からやって来た。火星人だ。そんな彼への評価は僕にとってどうでもいいこと。ただ彼が作って残したものを受け止めて、僕は勝手にそれを捏ねくり回して何かにしたり、或いは何にもしなかったりするだけ。勝手にシナプスが興奮し新たな結合を作り出すだけ。
神はいるだろうか?ファンにとってボウイは神にも等しい存在なのかもしれない。僕は人間を神様扱いするのは嫌いだ。だからどんなに好きなアーティストでもアイドルでも俳優でも神だなんて思わない。救われたなんて思わない。
僕はある意味科学という宗教の信奉者だ。僕はこの映画を観ながらそれを残念に思った。ボウイの作り出したものを観て、やはり科学には説明のつかないなにか、限界の向こう側、そんなものが存在すると思ったからだ。神でも魂でもあの世でもなんでもいいけれど、科学なんて存在すら知らずに、悠々と広がる世界があるのだと思ったからだ。
僕もそこに行きたいと思った。けれど僕にとってそれは難しい。僕は科学の信奉者のリストに名前が載ってしまっていて、それはあちらの世界に行くのに足枷になるからだ。その足枷を引きちぎる勇気はいまのところないし、その足枷だって実のところ愛しているのだ。
だからその足枷を付けたまま、向こう側へ行く方法を見つけたいと思った。きっとそんな道はある。向こう側の世界は科学のことなんて興味がないのだから、僕が信者かどうかなんて関係ない。こちら側だけの問題なのだ。
ボウイは神ではないけれど。神のような何かの存在を示した、その意味で、彼はどこか遠いところからやって来たのだろう。
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