I’ll say farewell.
映画「ベイビー・ドライバー」のネタバレを含みます。
ブレーキを踏む。シフトをリバースに入れる。バックミラーを見る。教えられた通りの一連の作業を行う。ハンドルを握りしめたまま、フロントガラスの向こうに目をやる。僕を睨む男がそこに立っていた。何かを叫んでいる。何を言っているのかまでは分からなかった。
フラッシュバック。
全身の血が凍る。僕に浴びせかけられる怒声。僕の全ての行いが、僕の周りを苛立たせる。僕の存在の全てが悪だ。僕は世界中の罪を背負う。償うこともできず、謝ることもできず、ただひたすら足元を見つめている。
再び叫び声。はっきりとは聞き取れないそれは、しかし何を言っているのか手にとるように分かった。僕の無能を、僕の不器用を、僕の迷惑さを責め立てているのだ。僕はそれに謝ることすらできない。ただひたすら指示通りにハンドルを回すことしかできない。
屈辱。
そんな言葉が頭を過ぎる。しかし戦うことも逃げることもできない。僕に植え付けられた無力感は僕を奴隷にした。全身の血が凍って、そのまま心まで凍りついた。
再び怒声。恐怖にほんの一瞬ブレーキから足が離れる。僅かに車が前に進む。その瞬間、僕は閃いた。
このままアクセルを踏み抜いてしまえ。
全身の血が沸騰した。百度の上昇に世界がくらりと歪む。なんだ、そんな簡単なことだったのか。
再びブレーキを踏んだ足を浮かせる。そしてほんの少し動かして、ほんの少し力を入れてアクセルを踏む。たったそれだけのことで、この男に復讐できる。僕は戦うことができる。僕はここから逃げることができる。
しかし僕の臆病がそれを止めた。再び血は、心は凍って、僕は奴隷に戻った。一秒にも満たない間だった。僕はヒーローにも犯罪者にもなり損ねた。
***
僕はいつの間にか大人になっていた。正確には国家というものが認める成人に。だからこうしてひとり昼から酒を飲み、ダラダラとインターネットを介して映画を見ることができる。誰にも怒られない。誰にも迷惑をかけていないからだ。否、誰にも僕の存在が知覚されていないからだ。僕は存在しているだけで迷惑だ。
「あなたへのおすすめ」などと勝手に判断され表示された映画を何の気なしにクリックする。プログラムのおすすめは気軽で良い。見なくてはならないというプレッシャーがない。プログラムはきっと僕を責め立てたりはしないだろう。つまらなければ途中で止めたっていい。
軽快な音楽。台詞はない。彼は踊るように歩いていた。プログラムもいいセンスをしている。僕はこのまま映画を見続けることにした。
彼の運転は見事だった。僕とは大違いだ。華麗なハンドル捌き、スリルにも微動だにしない表情。僕の無能と臆病とは正反対だった。
彼の回想シーン。彼は幼い頃に事故に遭い後遺症を負った。両親はその事故でいなくなった。事故の直前、両親は怒鳴り合っていた。彼の視点は、記憶は、そこに固定されていた。
僕と正反対の彼にも僕とほんの僅かに共通点があった。僕は少し嬉しくなり、そして苦しくなった。彼の辛さを感じた気がした。幼い世界が罵声と怒声で満ちている。幼い頭では、それは自分のせいだとしか理解できない。誰にも守られず、責め立てられる世界。そこでは何もできない。僕と彼は似たような世界に暮らしていたのだと思った。
その頃僕は車から、ずっと窓の外を見ていた。否、別の世界を見ていた。僕はそこではヒーローで、忍者で、魔法使いだった。僕は現実の世界から逃げ出していた。彼もそうだったのだろうか。そしてそのまま音楽で耳を塞いで、世界を遮断したのだろうか。彼の事故の後遺症は一つではないのかもしれない。
しかし僕と彼は違う。彼はヒロインと恋に落ち、勇敢に戦い、才能を持っている。僕は違う。僕はひとり、カーテンを閉め切った部屋でただディスプレイを見つめている。安いウイスキーのロックを片手に。あのときアクセルを踏み抜いたらよかったという後悔と一緒に。
Brighton Rock
彼の一番好きな曲だ。僕の好きな曲でもある。彼との共通点を再び見つけた。少し前のめりになって、彼を見つめる。派手な運転も、寡黙な生活も、ヒロインとの恋も、僅かに親近感を覚えた。
彼は戦った。自分のために。そして自分の大切な人のために。僕とは大違いだ。僕も大切な人がいたら戦えただろうか。否。僕は臆病だ。
彼は僕のなりたかった姿だ。僕は半ば無理やり彼に感情移入する。アクセルを踏み、ギアを操り、最小限の動きで的確に車を動かす。僕も凄腕のドライバーだ。ヒロインに照れて緊張して、そして幸せを感じる。僕も恋する青年だ。気に食わない奴には皮肉を言って、銃を手に取り敵と戦い、大事な人を守る。僕は格好いい男だ。
大事な場面、ここぞというときには一番好きな曲だ。それしかない。車内に響き渡るロック。罵声も銃声も掻き消して、ひたすら敵を蹂躙する。相手を嘲笑うかのような軽快なイントロ。ピンチに次ぐピンチをものともせず車と銃で戦うのだ。高音の歌声が戦いを煽る。
Oh, Rock of Ages
容赦なくアクセルを踏み抜く。躊躇いを表に出さずに。臆病な僕とは大違い。しかし僕はそれを忘れる。勇敢な僕を妄想する。彼と同じように、あのときアクセルを踏み抜いて、戦い、自由を手に入れる僕を。
それを祝福するかのような、計算され尽くしたギター・ソロが鳴り響く。ドラムと絡み合うリフ。技巧を凝らしたディレイ。ギター・ヒーローの手によって、僕自身がヒーローへと昇華されていく。
再び血が沸騰する。叫んでしまいたくなるほど爽快な復讐。僕の好きな、彼の一番好きな曲を鳴らしながら、最高の場面が展開される。僕が何度も何度も夢見た世界が。
しかし夢のような時間は終わりだ。彼は罪を償うことになった。彼はヒーローから犯罪者になった。しかし彼には彼を想う人がいる。彼には大事な人がいる。
僕にはどうだろう。エンドロールを見つめながら、僕は彼から離れざるを得ない。これは作り物で、嘘の話だ。彼はどこにもいない。彼は僕ではない。僕はヒーローにも犯罪者にもなれない。
僕は臆病で、無能で、迷惑なままだ。暗くなった画面を見ながら口にしたウイスキーは、溶け切った氷のせいで酷く薄い味がした。
Oh, Lady Moon, shine down a little people magic if you will.
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