疲れること、怖がること

 社会的なにんげんの活動を休止しているのだけれど、それでもなぜかものすごく疲れている感じがする。昼間は眠いし、夜は眠れないし、外出してみても疲れて寝込む。
 休んでいるから体力がなくなっているのかと思うけれど、たぶんそうではない。なぜなら休む前からそうだったから。

 この前精神科の診察に出かけ薬をもらいに行った。精神科クリニックというのは、普通のクリニックよりは静かかもしれないけれど、それでも人の話し声が止むことはない。受付にやってくる人や、電話の応対、付き添いの人と話す人。ちょっとなあ……と思うところでは、小さな子ども連れで子どもが騒ぐことがあるし(通っているクリニックは子どもは診察しないので親が仕方なく連れてきているのだろう)、ゲームとか通話の音漏れとかもあったりする。

 普通だったら、そういうのもまあ仕方ないかで受け流せるかもしれない。自分もそうであるつもりだった。けれど、思っているよりもこういうことのダメージが大きい。
 ちょうど内容が聞き取れないくらいの会話だと、悪口を言われている気がしたりする。大きな声で話す人だと怒鳴っているみたいでちょっと怖い。それだけじゃなくて、例えば後から入ってきた人がどこに座ろうかな……という素ぶりを見せた時、もしかしてわたしの座っている場所に座りたかったんじゃないか、なんて思う。

 薬局に行って処方箋を渡すと、薬剤師さんや事務の人が薬を用意しているのが見える。それも何となく落ち着かない。わたしなんかのために、わたしはぼうっと座っているだけなのに、忙しなくいろんな薬を取り出しては確認しているのが申し訳なくなる。もちろんそれがお仕事だし、わたしは何も悪いことはしていないと頭では分かっている。でも、めんどくせえなと思われてないかなとか、そんなことが怖くなるのだ。薬の説明をされているときも、何か怒られたりしないかなと思ってしまうことがある。

 こういうのはほとんど被害妄想で、相手にも失礼だというのは分かっている。分かっているのだけれど、だからと言ってすぐ止められるものでもない。

 どんなところでもこうして怯えてしまうのは、父親のことを思い出すからだろと思う。些細なことでもキレて怒鳴っていた。家の中でも外でもわたしが父親の動線上に立っているとキレられ小突かれた。だからひとりで歩いていても、誰かの邪魔をしていないか、そして誰かが怒鳴ってきたり殴ってきたりしないかと警戒してしまう。
 飲食店が混んでいて、なかなか注文したものが出てこないときは、父親は店員さんにクレームをつけ、説教をしていた。俺が教えてやっているという態度だった。それを見ていると、こうやって理不尽に怒る人は当たり前にそこら中にいるのだという気がする。なぜならそうする人がずっと家にいたのだから。
 レジでもたついてしまったときも、他のお客さんや店員さんに怒られるのではないかと思ってしまう。もし父親の前でそんなことをしたら、最低限舌打ちされるだろう。
 横断歩道をゆっくり歩いている歩行者を見るたび、父親は走るくらいしろよと怒鳴っていた。もちろん車の中からだったから相手には聞こえていないと思うけれど、その声を思い出して疲れていても横断歩道は急いでしまう。

 インターネットやTVで「カスハラ」とか「煽り運転」とか「キレる高齢者」と話題にされるような行動を、父親はひととおりやっていた。そういう人間が近くにいると、これが当たり前なんだと思い込んでしまう。それも幼い頃から。それで同じように周囲にキレまくる人になるかもしれないし、わたしみたいに周りの人もみんなわたしにキレるかもしれないと怯える人になるかもしれない。

 とにかく、こんなふうに人間が関わる全てのことに怯えて警戒して生きている。もちろん場面によってその警戒レベルは変わるけれど、ゼロということはほとんどないかもしれない。そのことに最近気がついた。流石に普段はゼロなんじゃないかと思っていたから。けれど、自分の思考や行動を振り返ってみると、常に警戒していると考えた方がしっくりくる。じゃなければ薬局で不安になったりしない。

 だから疲れている、というのはある意味当たり前だと思う。常に警戒していたら、リラックスとか休むどころの話ではない。寝るときだって、結局悪夢を見ることも多い。そりゃあ疲れなんか取れないよなと思う。

 だから体力がなくても疲れやすくても仕方ないのだ。とりあえず、今はそう思って、すぐ眠たくなる自分を許そうと思う。

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