にんげん、ハンロンの剃刀

 ああ、人間に傷つけられた。そんなことを思うことが多い。正確には、わたしが勝手に傷ついた、なのだけれど。

 よくあるのは「頑張って」という言葉。わたしが鬱病だと知っている人がそれを口にする。絶対というほどではないけれど、鬱病の人に頑張ってというのは禁句だと知らないのだろうか。わたしもう頑張れないのに、と思って悲しくなる。やっぱりまだ頑張らなきゃいけないのかな。

 講義を休んでいるのも、単位を落としかけているのも、そういう「キャラ」として扱われる。よくサボる奴、みたいな。好きでそうなっている訳じゃないのに。笑いながら「全然来ないよね〜」なんて言われたら、笑顔は作っていても心は痛い。

 悩みとして、人が多いとしんどいから大学に行けない、と話すと「社不じゃん」と笑われる。早く寝なよ、と言われて、不眠なんですという言葉を言いそびれる。


 こうやって、周りの人に小さく少しずつ傷つけられる。またか、と思う。
 そして、その度にみんな悪意があったわけじゃないよねと自分に言い聞かせる。わたしが元気そうにするからうつだって忘れているんだ。その場のノリで面白いと思ってサボりだとか言ってみただけなんだ。別に傷つけようと思っていた訳じゃなくて。

 にんげんって、実はあんまり何も考えていない。noteにも何度も書いた。そう実感することばかりだったから。家庭環境が悪かったと何度も話しているのに、どうして帰省するのとか聞くんですか。不安障害だって言ってるのに、人間との付き合いをとにかくやれと勧めるのですか。その一言ひとことの重さを、どれだけ考えているんですか。考えていないだけでしたね、すみません。

 わたしも考えなしに言った言葉で人を傷つけたりしているだろう。でも一応、出来るだけ気にするようにはしているのだ、口にする言葉、話題、それらへの態度。口にした後やばい、と思って謝ったり黙ったりすることもある。それで取り返しがつくとは思っていないけれど。


 とにかく小さな徴候でも気にしていなければ怒鳴られていた子ども時代が影響しているのだろう。もちろん誰かに怒られるのも怖いけれど、気を遣わなかったせいで誰かを傷つけるのは嫌だ。絶対に傷つけない、ということは出来ないけれど、少し心を配っていれば避けられることというのはあると思っているから。そうしたらこの世からほんの少し悲しみが減る。そう願って出来るだけ気を遣う。

 けれど、そればかりも良くないのでしょう。自分の気持ちが大事だと言われる。自分の気持ち、あんまり良く分からないな。とにかく、人と関わりたくないというのはたぶん本音だ。もう傷つきたくないから。ああ、この人もあまり何も考えていないのだと失望したくないから。


 こういうことを書いていると、「自分が出来てるかどうかだって分かんないじゃん」「他の人も別の場面では気を遣っているかもよ」なんて言葉が頭の中でわたしを責める。それは正しい、と思う。同時に直観が、いや、みんな思っているよりはるかに何も考えていないよと言う。

 やっぱり傷つくよなあ、という言葉を言われたとき、この人はわたしを傷つけようとしたんだと思うよりは、この人はあまり考えずにこの言葉を発したんだなと思う方が楽だ。傷は痛いけれど、まだ。

 やっぱり、人と関わりたくないということだけが分かっていて。

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