本を分からないまま読み進めるということ

 自分は他の人たちより賢いと思ってみたくなる。或いは、単にかっこいい何かになってみたくなる。ヴィトゲンシュタインに手を伸ばす。「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」。ただその一文にたどり着く前に、何も分からない自分に少しがっかりし、そしていつの間にか本の存在すら忘れる。懲りずに純粋理性批判を開く。今度は読めるかもしれないと何度思っただろうか。

 世の中には「読めない本」というものがある。日本語で書かれていても。しかしそれは「理解できない」こととイコールではない。

 理解できなくとも読める本がある。それを初めて知ったのは小学生の頃だった。父親の本棚から光瀬龍の「百億の昼と千億の夜」を盗むようにこっそりと手に取って読み始めた。ほとんど意味が分からなかった。ソクラテスや仏陀が出てきたような気がする。SFというより哲学みたいだった。けれど確かに物語というものを追いかけているような気もした。読み終わって、たぶん何も覚えていなかった。どんな本か聞かれても答えられない。

 理解できない本は読むのをやめてしまうものだと思っていた。「悲しき熱帯」を十ページほど読んで返却期限ぎりぎりに図書館に持って行ったときみたいに。

 そうではないと再び思い知ったのは、平野啓一郎「日蝕」を読んだ時だった。何も分からなかった。アンドロギュノスという言葉だけを覚えている。どんな話だったかは、そもそも知らない。だから誰かに説明できる筈もない。それなのに、この本ははっきりと「読んだ」と口に出来る。

 理解できないのに先に進めてしまうのは、どんな魔法なのだろうか。いまもう一度同じ本を読んだら、今度は理解できるのだろうか。理解できず読み終われない本と何が違うのだろうか。

 まだ読んでいない本が静かに積まれていく。電子の形をした本はその存在をほとんど主張しない。読めなかった本はデータの栞が挟まれたまま。

 何も分からなくたって読み進めてもいいし、分かったって読むのをやめて良い。買ったままダウンロードされていない本があっても良いし、2冊同じ本を持っていても良い。何もかも自由だ。

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