ずっとひとりぼっちだったね

 保育園の頃から「浮いている子」だった。大人しく、先生の言うことにも逆らわないから、特に目をつけられているわけではなかった。けれど確実に馴染めてはいなかった。

 4歳くらいのとき、園庭で鬼ごっこをする同級生たちを見ながら、どうして疲れるだけなのにわざわざ走り回っているのだろうと思っていた。他の子たちと遊んで楽しいとは思わなかった。おままごとにも興味がなかった。
 けれど、ひとりでいると先生に心配され声をかけられる。それもうざったかった。だからわたしは小細工を編み出した。こおりおにをしている中に混じって、あたかも鬼にタッチされたかのように立っておけば、先生はわたしも参加しているのだと勘違いしてくれる。おままごとは、ペットの役をやれば何もしなくていいので、みんながいろんなことをやっている側でただ座っていた。

 同級生たちもそんなわたしのことを変なやつとは思っていただろう。自分たちとは異なる存在に対して子どもは遠慮などしない。「仲間はずれじゃん」と一人で遊んでいるわたしを何度かからかった。おままごとだって、参加させてやるから一番格下のペット役をやれということだったのだろう。その利害は一致していたけれど、迷惑がられているというのは理解できた。

 小学生になっても一人で本を読んでいるタイプだった。けれど男の子たち何人かと気が合って、休み時間に教室で遊んでいることはあった。それは楽しかったけれど、やっぱり女の子たちの輪には入らなかった。入れもしなかったのだろう。
 高学年になってからは比較的仲の良かった子からからかいを受けた。スカートをめくられたり恋愛事情について有る事無い事言い触らされるといった感じだ。騒げばいじめということになったのかもしれないが、そこまで酷いとも思わなかった。ただ面倒で、とにかく人と関わらずに済むならそれがいいと思った。

 これらのことで傷ついているとはあまり思っていなかった。けれど幼い頃のことまで覚えているというのは、やはりどこか傷ついていたのかもしれない。

 友達、という存在がよく分からない。ありがたいことに、コミュニティの中に一人くらいわたしのことを気に入ってくれる人がいて、遊びに誘ってくれたりした。わたしが自分から誘うことはほとんどない。その人だって他の人と遊んだり色んなことで忙しいと思うから。そしてそれ以上に、なんだか億劫だから。

 友達と楽しく遊ぶ、ということは健康にも重要だと世間では思われている。医者だってカウンセラーだってそう言う。しかし友達と楽しく遊べたことが、果たしてどれだけあるだろう。いや、それなりにはあるけれど、遊ぶのにだってエネルギーは必要だ。遊んだことで得られるメリットより、心身のエネルギーが失われるデメリットが大きい。そう感じて誰かと会うのをやめる。

 むかしから、どことなくひとりぼっちだった。もちろん、友達がいて、充実していたこともある。けれどその時期も含めて、なんとなくひとりだった。友達って、普通はどんな付き合いをするんだろう。わたしには他愛もないLINEを送るような人はいない。自分から遊びに誘ったりもしない。わたしを誘ってくれる人は、わたしを一応の友人だとみなしているだろうから、ありがたく誘いに乗る。けれど深い付き合いはしない。傷つくのは自分だから。小学生のときみたいに。いつかの恋人に振られた時みたいに。

 人付き合いがよく分からないままここまで来てしまった。明らかな社会不適合者ではなかったからだろう。しかしだんだんと、適応したフリすら難しくなってきた。学校という狭い世界にはわかりやすい型がある。しかし社会には暗黙の了解が無数に張り巡らされているようで、わたしはしょっちゅうそれに引っかかっては、白い目で見られているのを感じる。

 しばらく一人で過ごす。それが自分にとっていちばんいいと思う。そんな時間を持てたことはありがたい。他の人のことで、それも過去の人のことで思い悩むのはやめておきたいな。

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