子育て支援って誰のため?

 「子育て支援」って何なんだろう、ということを、機能不全家庭育ちの素人が考えてみる。ちなみに未婚子なしで、育児経験といえば歳の離れたきょうだいのおむつ替えミルク作り程度だ。

 まず個人的な考えから言うと、子育て支援はあくまでも子どものためのものである。親やほかの大人のためではない。子どもが十分に良い環境の中で、自由に健全に育つためにあるもの。結果として、支援は殆ど親に向かうことになる。何故ならこれらを直接的に子どもに与えるのは親だから。けれど「親を助ける」ことが目的ではない。「子どもを助ける」ための手段として「親を助ける」。それが子育て支援だと思っている。


 では政府の考える子育て支援とは何だろう。

こどもを生み育てることに喜びを感じられる社会を目指して

次代の社会を担うこども一人ひとりの育ちを社会全体で応援するため、子育てにかかる経済的負担の軽減や安心して子育てができる環境整備のための施策など、総合的な子ども・子育て支援を推進しています。

厚生労働省HPより

こども家庭庁は、
こどもがまんなかの社会を実現するために
こどもの視点に立たって意見を聴き、
こどもにとっていちばんの利益を考え、
こどもと家庭の、福祉や健康の向上を支援し、
こどもの権利を守るための
こども政策に強力なリーダーシップをもって取り組みます。

こども家庭庁HPより

厚生労働省のHPと、今日(令和5年4月1日)発足したこども家庭庁のHPからの引用を見比べてみる。厚労省の「子育て支援」観は、社会が中心となっている。子育てしやすい社会、子どもは次世代を担う人間として大事にされているようだ。一方でこども家庭庁は、こどもの権利が中心となっている。こうして見てみると、私の考えに近いのはこども家庭庁の目的のようだ。

 そもそもなぜ私が子育て支援に興味があるのかというと、苦しんでいるひとを少しでも減らしたい、と思っているからだ。最初に書いたとおり、私の家庭は機能不全家庭と呼ばれるものだった。少なくとも私はそう考えている。ほぼ毎日怒鳴っている父親、それに萎縮した母親、私はふたりの間でいい子を一生懸命やっていた。それはとても辛いことだった。いま振り返ってやっとそう思える。あのとき助けて欲しかった、と。自覚したのは成人して自分が鬱病と不安障害を発症してからだった。

 子どもの頃に受けた虐待やいじめなどの心の傷は、生涯にわたって影響を及ぼしやすい。発達過程の心身は環境の影響を受けやすいからだ。(詳しくは以下の論文など)

 だから将来苦しむひとを減らすには、まず子どものときにこういった辛い経験を受けずに済むように、また辛い経験をした場合にケアをされ心の傷にならないようにする必要があると思う。子育て支援、というのもこの為にあると思うから、冒頭に述べたような考えになる。

 しかし、わざわざ「子育て支援」に着目したのは何故か?という疑問は残るだろう。特に、将来の大人ではなくいま苦しんでいる大人への支援を考えないのは何故か、という問題だ。そのひとつは大人になってから子どもの頃に受けた傷を治すのは難しいと思うからだ。これは自分の経験からそう思う。しかしだからと言ってそんな大人を放っておいていいかと言ったらそんな訳はなくて、きちんと考えなくてはいけないから、別の記事で書こうと思う。

 今回子育て支援のことを書こうと思った最大の理由は、「子育て支援って誰のため?」ということがないがしろにされているように感じたからだ。最近、奨学金の返済免除や育休中の給与補填などについて政策案が出るたびにたくさんの人がTwitterで何か意見するのを見る。しかしその中に子ども目線は顧みられていないものも多くて、やれ不平等だやれ産む機械にするつもりだ、いや違うこれが良い少子化対策なんだみたいな話が飛び交う。全部親や大人視点である。

 子育て支援が親のためになっていると感じる、という理由の具体例を挙げたいと思う。一番身近で気になったことは、私のカウンセリングを担当している心理士の方が私の母のことについてよく話すことだ。母がどう考えているかとか、母にどんな負担があるのかとか、それを解決する方法とかを、心理士さんの方から尋ねる。私にとってはそれは一番重要なことではない。というか、幼い頃からずっとそれを考え続けてきて、そのせいで病気になった面もあるのに、何故わざわざ私の問題ではなく母にフォーカスするのか分からない。もちろん、母の負担が減れば巡り巡って私の負担が減ることはあるだろう。しかし、それよりも母の負担を減らすことそのものが目的の面談になっていると感じる。そこには心理士さんがつい自身の立場から私の母の方に感情移入してしまうという問題があると思う(実際そう言っていたので)。しかしじゃあしょうがないねという話ではない。カウンセリングの時間は私の問題を解決の方向へ向けるための時間なのだ。だから「誰のための子育て支援?」という疑問が強くなっていった。

 二つ目はTwitterの話で、児童精神科医の方が自身の子育ての辛さについてよく共有しているのを見たことだ。その方は、もちろんお仕事がそうであるように、子どもが過ごしやすい制度や環境を作ることに熱心な方だと感じる。そしてその為には、ご自身の育児の苦労から親への支援が大事である、辛さを共有する必要がある、と考えたのだろう。もちろん親に余裕がなければ子どもに良い環境を与えることは出来ない。しかしツイートの内容は、「自分が」子どもを可愛いと感じる、「自分が」不安を感じる、「自分が」辛いと感じる、というものが主だ(私の主観が入っているかもしれない)。あれ、「子どものため」なんじゃなかったっけ?と思う。ある程度成長した子どもが、この呟きを見たら傷つくのではないかと思った。自分の親が自分を育てるにあたっての苦痛を全世界に向けて発信していたとしたら、子どもは自分を責めたり恥に感じたりするのではないか。しかもアカウントの特性上、すぐに自分のことだと分かるはずだ。「子どものために良い社会を」ということを目的にしているはずなのに、子どもを傷つける可能性があることをしている。なんだかおかしいんじゃないか、と思った。育児で疲れているからそこまで考えられない、とか、ほかの子どものために、とか、子どもを傷つけていい理由にならないと思う。子どもが将来傷つくかは分からないけれど、別の記事にも書いたとおり、せめて子どもについて公開SNSで話す危険については考えた方が良いのではないだろうか。それを考えないなら、「親である自分のため」という印象が強くなる。

 三つ目もまた身近な話で、私自身の母のことだ。母は一応私の現状について、原因の一部が自分にあることも理解して、私のことを心配している。私の為になることをしたいと言っているが、結局自分の不安や後悔を埋め合わせる行為に私を付き合わせていることが多い。これも「親のため」だ。そこに子である私の意見とかメリットとかは含まれていない。


 そんな訳で、いまの日本には「親のため」がたくさんあるのではないかと思った。もちろん狭い観測範囲の中ばかりだ。しかし、厚労省のHPでも「社会のため」であったし、現状行われている支援はほぼ全て親に向かっている。子どもに対する支援でも、例えば療育を受けるかどうかを決めるのは親だ。親権は簡単には止められない。子どもが持つ権利の殆どを親が代行していて、子どもの意見が反映されることは少ない。こども家庭庁がそのあたりを少しでもマシにしてくれるようには見えるけれど。


 反対に、「親のための子育て支援」そのものが目的とされることはあるだろうか?すぐに思い浮かぶのは少子化対策だ。子育ての負担が減れば子どもが増える可能性がある。しかし苦しむひとは減るだろうか?単に親が楽になることだけを考えれば、チャウシェスクの二の舞になるかもしれない。そうなれば少子化解消なんて夢のまた夢になる。少子化を解消したい理由は労働力や経済活動の問題が大きいので、その観点からも親への子育て支援そのものを目的とした少子化対策はあまり意味がないと思う。

 他には、すぐには思いつかない。「子どもを持つひとは偉い」といった道徳観から来る支援だろうか?しかしその道徳観は子どもの権利より大きいものではない。現代社会で一番大事なもののひとつは人権だからだ。


 そんな訳で、子育て支援というのはやはり子どもが健全に成長するための環境を整えること、が目的になるだろう。その手段の一つとして親への支援がある。あくまでも手段だ。だから本当は、家庭以外の子どもの居場所を作り、親元にいるよりはそちらの方がいいという子どもは移れるようにするなど、「親」というものに縛られない子育て支援も必要なのだ。

 子育てっていうと、現代社会では親がするものと思われがちだ。だから子育て支援という言葉ではなくて、こども支援、こども福祉、みたいな「子どもが中心だ、子どもの権利を守るためのものだ」と感じられる言葉の方がたくさん使われたらいいと思う。それこそ、こども家庭庁よりこども庁の方が良かった、と言われている通り。


4/3 追記
沢山の方に読んでいただき嬉しいです。中には子どもに関わる活動をされている方や、子育てをされている方もいらっしゃって、スキをくださったことで親御さんにも共感してくださる方がいるのだなと、なんだか過去の自分が少し救われた気がします。

「親のための子育て支援」なんてないのだ(手段でしかないのだ)という主張でしたが、やっぱり考えが足りなかったなと思うので追記します。

 親だってひとりの人間である。私はそのことを忘れがちだ。私の家庭では親は神様のようなもので、全てを支配し、親の機嫌ひとつで何もかもが変わったからだ。だから自分の親に対して恨みや憎しみのような感情を抱いているにも関わらず、「本当の親」というものを無意識に信じ、崇拝している気がする。どこかに子どもを傷つけない完璧な親がいるんだと。親子のちょうど良い距離感というものがわからないから、そうやって極端に悪い親か良い親しか想像できない。

 親は子どもを産むことを自分で選べる。だからきちんと責任を果たすべきだと思っている。今でもそうだけれど、そこに「親だって人間なのだ」という視点を取り入れてみる。そうすると、「苦しんでいるひとを助ける」という観点からの「親への子育て支援」というものが浮かび上がってくるのではないかと思った。今回は「子どもを助けること」にフォーカスしたけれど、テーマは「子育て支援」だから、この観点は必要なのではないかと思った。

 親になりたいと思う時、親になる時の心境は分からない。しかし全ての覚悟を決めて何もかも受け入れられる人間はひと握りの筈だ。そこに軽々しく「親なんだからもっと考えろ」というのは、息苦しい世の中だと思った。それは巡り巡って子どもたちも同じプレッシャーの中で生きることになる。

 親には親でない時間、親でない自分というものが存在する(はずだ)。その「自分」が苦しんでいる時助ける制度は必要だと思う。もちろん「親」として苦しんでいるときも。例えばカウンセリングで自分の問題を見つめ直す、イライラしがちならアドバイスや時には薬の利用も考える。少し息抜きするだけで楽になるひともいるかもしれない。子育てとは全く関係なく、仕事や親戚付き合いや夫婦関係で悩んでいるひともいるかもしれない。そういうひとたちだって苦しんでいるひとだ。だから助ける仕組みが必要だ。

 こちらの方も、「子育て支援」というとなんだか曖昧だ。子育てのための支援です、と言われると、親ではない自分は蔑ろにされると感じるかもしれない。だから「親支援」のように、親がターゲットなんだ、と明確に打ち出す支援もあると良いんじゃないかと思った。これは子どものいないひとに対する支援とも重複すると思う。子どもがいるひと特有の問題、そうでない問題を分けて、子どもを持つひと特有の問題は「親支援」で助ける。そうでない問題は成人向けの福祉で助ける。そんなふうに出来たら良いのかなと思った。
 「親支援」のひとつとして、一時預かりとか、子育て向いてません、無理です、となったときの対応もあれば良いと思う。きっと子どもにとってもその方が良い場合もあるだろう。

 もちろん素人の妄想で、絵に描いた餅で、お金や人が勝手に湧いてくる訳でもないけれど。「子育て支援」の中身を「子ども向け」「親向け」に分けてみるのは良いんじゃないかと思った。少なくとも政策は「子育て支援」でも、どちらを向いている政策なのか意識できると思うし、何を解決したいのかが少し見えてくる気がする。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?