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エモ短歌、あるいは飾り立てられた希死念慮について

 わたしはたまにTwitterに短歌を投稿している。短歌を投稿しているひとをフォローもしている。

 この頃「エモ短歌」についての投稿をいくつか目にした。現代短歌の、特にインターネットやSNSで人気のあるやつ、というのが「エモ短歌」だろうか。定義についてはよく分からない。しかし「エモい」短歌に関する議論というのは少なくとも数年前にはすでにあったようだ。短歌を作り始めて1年ほどのわたしは知らなかったけれど。

 この数年前のエモい短歌は、言葉通りエモいと感じさせる短歌のことだと思う。恋愛とか、青春とか、思い出とか、綺麗な景色とかそういうことがテーマ。言葉づかいも今っぽい、のかもしれない。

 わたしはこのエモいと言われる短歌が好きだ。そもそも短歌を作り始めたのもTwitterに投稿されている短歌を気に入ったからだ。だから出来るだけ「エモく」感じられるような短歌を作りたいなんて思う。

 このエモい短歌に対する評価のひとつには、もう飽和状態だというのがあるだろう。最近では広告にも現代歌人の短歌が取り上げられて、#tankaのハッシュタグが賑わう。短歌に興味がないひとでも、バズった投稿はみたことがあるかもしれない。だからエモい短歌はもはや当たり前で、素人が作ったものはみんな似たり寄ったりで面白くないのかもしれず、そのなかで抜きん出るには特別な才能とか運が必要。特にSNSでバズるかどうかというのは作品の良し悪しだけでなくタイミングもある。
 こういう流れを好ましくないと思う人たちもいるだろう。もしかしたらもっと伝統的な短歌や和歌の作り手、あるいはエモさばかり狙った作品に辟易した人、そのほかにも。作り手はたくさんいるのに、同じような傾向の短歌ばかりが投稿されることに危機感を覚える人もいるかもしれない。文化が先細ってしまうかもしれないから。


 他の批判には、エモ短歌のうち、死や希死念慮、自傷、鬱、そういったものをテーマにしたものに対するものも見た。確かに「エモい」とされるものの中には、メンヘラ文化的なものがある。リストカットやオーバードーズに憧れる感情。自殺や早逝した人を崇めるような風潮。思春期の人に多いのかもしれない。

 わたしはこれらのメンヘラ的なエモ短歌を多く投稿する方だと思う。なぜならわたし自身が「メンヘラ」で、抱えきれない希死念慮や抑欝に苦しんでいるから。メンヘラ、という言葉が良くないというなら、精神疾患患者である。うつ病と不安障害。それを抱えて生きている。

 それを短歌にするのはいろんな理由がある。とにかく吐き出したいと思うから。でも、直接死にたいとか殺して欲しいとかみんな死ねとかは言いたくない。別に言えばいいのかもしれないけれど、それを投稿したあとの気分は最悪だからそうしない。直接的な死にたいという言葉は共感されないどころか引かれて気持ち悪がられて馬鹿にされるだけだ、そんな感覚がある。だからなんとか言葉をこねくり回して拙い短歌にする。それを考えている間、化け物みたいな死にたさを少しは飼い慣らせた気持ちになる。いまのわたしの死にたいは、こんな形をしていると思う。それを言葉にすることで少しはマシになる。それを投稿していいねをもらったら、共感された気がして救われる。

 しかし、このメンヘラ的エモ短歌は悪影響がある、というのも頷ける主張ではある。なんとなく良さそうな言葉で飾られた希死念慮を見て、これは良いものだと思わせてしまうかもしれない。そう思った人たちは治療や回復から遠ざかって行くかもしれない。その果てには取り返しのつかない自死があるかもしれない。

 言葉は凶器になる。それを思う。わたしの短歌は人を殺すだろうか?多くても数百しかビューはないけれど、それでもあり得なくはない。言葉は人を救う。わたしの短歌は人を救うだろうか?いいねをくれたひとの中に救われたと思った人がいただろうか?

 表現は自由だから、例え人を殺すかもしれなくてもわたしが短歌を投稿し続ける自由はある。

 わたしはわたしの苦しみを和らげる手段のひとつとして短歌を作っている、と思う。苦しさを言葉にして、それを見てもらって反応してもらって。無責任な話をすると、誰も助けてくれないからそうしてるんじゃないか、と言いたくなる。わたしは病院にも行ってカウンセリングも受けたりして本も読んで人よりメンタルについて考えてるし良くしようとしていると思う。それでもなかなか努力は実を結ばない。社会はそんなわたしに優しい手を差し伸べてくれているだろうか?わたしはそう思えない。だからみんな死ねと思う。それをインターネットの海に流す。

 生きていきたいかそれすらも分からない。自殺未遂をして、自殺は難しいと思って、だからとりあえず今日を生き延びないと思っているだけのような気もする。そんなに前向きには生きていないのは確かだ。ちょっと楽しみなことがあって、それでも死にたくて、でも死にきれはしないから死にたいと言う。下手な飾りをつけて。

 そこに自殺しない方が偉いとか生きてるやつが偉いとか生きる方を選ぼうとかそんな話をされてもクソとしか思えない。少なくともわたしは。自殺した人たちが偉くないなんて少しも思わない。彼らが負けたとか弱かったとか思わない。死んじゃダメだよという思想を押し付けてくる社会キモチワルイとしか思わない。


 メンヘラってエモいなわたしもリスカしちゃおう。そういう性質の人がいるというのは分かる。でもわたしは、そういう人はしたらいいんじゃないの、と思ってしまう。何かを心に抱えていなければそのうちバカバカしいと思ってやめるかもしれないし、何かを抱えているならそれは助けを求めるサインなのかもしれない。わたしはわたしの経験と感覚からしか言えないけれど、メンヘラ文化に憧れてリスカやODをするから精神疾患になるのではなくて、その逆でしかないと思う。何か辛いことがあるからそういうものが魅力的に映るんじゃないかと思う。メンヘラ文化を潰してメンヘラエモ短歌を消してもそういう人は救われない。

 つまるところ、誰を傷つけて誰を救って誰を守るかという話なのかもしれない。わたしの短歌のせいで健康を損なったり命を失う人がいるかもしれない。そう思って短歌を作るのをやめる、そうしたらわたしはもっと死にたいと思うかもしれない。次は本当に死ぬかもしれない(これは脅しではないので、どうか、誰も自分を責めないでください)。わたしの短歌を見てちょっと共感してくれた人がいたとして、その人がこれから救われた気分になることがなくなるのかもしれない。でも他にもっといいエモ短歌を作る人はたくさんいるから、どうでもいいのかもしれない。



 短歌やそれ以外の表現でも、みんな好きにやろうぜと思う。そう思うならこんな長文書かなくてもいいはずで、書いているということはわたしは他人の目を気にしているということかもしれない。自分に、好きにやろうよと言い聞かせたいのかもしれない。でも無害な表現はないのだから、ちょっと立ち止まって考えることは必要なのだろう。

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