わがまま

 人々はみんな勝手だ。鬱を治すために陽を浴びようとか運動をしようとか人と交流しようとか人のことを気にするなとか。

 自分に合っていないアドバイスは受け流せばいい。心ない意見は無視したらいい。そんなこと、言われなくても分かっている、分かっているけど。

 言葉って一度外へ出て、誰かの耳に届いたらもう取り消せない。聞いた誰かも忘れることはあるかもしれないけれど、それを意図的にすることはできない。聞いた本人であっても。
 だから気にするな、なんて、意味のない言葉なのだ。気にしようと思って気にしているわけじゃない。ふとした瞬間に言葉を思い出す。そこから連想ゲームが始まる。ああ、今日も寝て過ごした。やっぱりこんなんだから鬱が治らないのかな。いや、休めたんだから良しとしよう。でも休んでいるって言うより怠けているのかもしれない。

 多くの人はそんなこと考えないのかもしれない。本当に色んなことを簡単に忘れることができるのかもしれない。けれどわたしはそんなこと出来たことがない。それが病気のせいなのか元々の性質なのかは分からない。

 「みんな」みたいなものが苦手だ。それは例えば統計の平均だとか中央値だとか最頻値みたいなものに近い人たち。普通、大体の性質なんかはそういうある値の周りに多くの人が集まる。IQが良い例だ。そういうふうに決められているのだから当たり前と言えば当たり前だけれど、IQ100の人が一番多いのだ。そんな中で、「普通なんてものはないよ」と言われても、ただの言葉遊びにしか思えない。人間はありとあらゆる手段で「普通」を決めてきた。そしてほとんどの場合、普通に当てはまらない人はいないことにして。

 だから医学や心理学の世界でも「普通」があるのだろう。「普通」、鬱病ならこの薬を出して早寝早起きもさせて栄養バランスの取れた食事をさせて運動させたら治る。人とのコミュニケーションを重視するのが良い。そういう「普通」。それに当てはまる人、それなりに多くいるんだろうけど、そういう人は治って、そうじゃない人は治らない。でもそうじゃない人に医者は何もしてくれなくて、それどころか治そうとする態度じゃないと思われたり言われたりもする。

 いいな、「普通」をたくさん持っている人は、と思う。同時に変えられないんだから普通じゃない自分もせめて自分だけは受け入れようと思う。自分よりもっと大変な「普通じゃなさ」を抱えて生きている人もいるのだから甘えるなとも思う。色んなことを思って、やっぱり「普通」の人はこんなこと考えないのかなと思って悲しくなる。

 だからこそ、ずっとずっと、人の心が少しでも分かったらいいのにと思ってきた。他人の考えていることが知りたい。だから精神分析とかMBTIとか神経科学とか誕生日占いとか哲学とか色んなことを知ろうとしてみた。でも別に、今のところ何も分からない。

 確かに、他の人たちも多種多様な困難や苦しみを抱えて生きているのだろうと思う。でもその中の多くの人は類似した苦しみを味わい、互いに共感して慰め合っているように見える。少なくともわたしにはそう見えて、そしてわたしはその中にこれまで一度も入れたことなんてないと思うのだ。だから、これはわがままなのだけれど、誰かがわたしの苦しみのことも分かってくれたらいいのにと思う。だからずっと、文章を書いている。

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