見出し画像

500円のお昼ごはん

私は高校時代、お昼ご飯は母が作ったお弁当だった。
私が通っていた高校では、朝に注文すると昼に届くパンを買うことはできたが学食は無く、昼食は持参するしかなかった。だから生徒たちは、家からお弁当を持参するか、学校や通学途中にお店で昼食を買ってきていた。

高校3年の時だった。私の母も毎日お弁当を作っていてネタに困ったのか、時間がなかったのかは分からないが、しばしばコンビニの焼きそばを持たされることがあった。コンビニの焼きそばは嫌いではなかったが、冷えたままのコンビニ焼きそばは数回食べると飽きてくる。何回かコンビニ焼きそばを食べると、「どうせお金を出して買うなら違うものが食べたい。同じお金を出すなら、食べたいものを食べたい」という思うようになった。
同時に、私は高校まで徒歩5分くらいのところに住んでいたので、遠くから通っている同級生達が、自分の定期券を使って電車に乗り、街中を通って、コンビニなど途中のお店で昼食を買って通学している姿というのが、華やかに見えて羨ましかった。

ある時、おそらく昼食とは直接関係ない何か些細な事が原因で、母と意見がぶつかった。
そこで私はつい、その時溜まっていた不満をぶつけてしまった。
「お弁当とかも、もう作らなくていい。自分で買って食べたいし」みたいなことを言ってしまったのだ。
その時の母がどう思ったかは分からない。作らなくてラッキーと思ったか。娘にそんなことを言われてショックだったか。
そして私のお弁当は次の日から作られなくなった。代わりにお昼代としての500円玉がテーブルの上にポンと置かれるようになった。

当時まだ高校生だったということや、30年前の地元ではコンビニというものもそう多くはなかったので、コンビニ弁当を買うという習慣があまりなかった。そのため初めの数日間は、自分で選べる楽しさや、既製品の濃い味付けが新鮮で、満足していた。しかし、コンビニ弁当って飽きる。すぐに飽きる。メニューを変えて違うものを買っても、どれも同じような舌に絡みつくような甘ったるい味なので嫌気がさす。学校で買えるパンを買ったりもしたが、それでも既製品の味というものに飽きていた。1、2ヶ月も経つと、母のお弁当が恋しくなってきた。母のお弁当は特別手の込んだものではなかったが、それでも母の手作り弁当の方がいいと思った。
しかし、吐いた唾は飲めぬじゃないけれど、一度啖呵を切ってしまった以上、「やっぱりお弁当を作って欲しい」なんて今更言えない。
いや、今思えば普通に言えばいいだけだったんだろうけど、変な意地みたいなものがあって、言えなかった。
毎朝置かれる500円玉も、初めは輝いていたのに、より無機質なものに変わった。

3年の終わりくらいになると、お昼休みは仲の良い子とそれぞれカロリーメイトを10分15分でささっと摂取し、空腹を満たすや否や、残りの昼休みの時間を体育館でバスケットやバレーをする時間に費やす、という習慣ができて、食事へのこだわりもあまり感じなくなっていた。というよりむしろ「母のお弁当を食べたい」という気持ちが抑制されて都合がよかった。

私は高校を卒業すると進学のために上京した。
必然と、母の手料理を食べる機会はなくなった。母の住む実家は私が一人暮らしをしていた東京の家から飛行機で行く距離だったので、年に一回帰るか帰らないかぐらいだった。

上京して3年後の私が21歳の時、母は癌になった。
母と日頃やりとりしていたFAXに、「夜中に腹痛で救急車で運ばれて入院した」というような内容が書かれていた。私は身体全体にドンっと鉛を落とされたような衝撃を受けた。実家にいた時に母が頻繁に胃が痛いと言って、よく胃薬を飲んでいたので、癌ということは書かれていなかったが、私はすぐに癌ではないかという直感が働いた。
その直感は見事に当たっていた。帰省した時に父から癌だということを聞かされた。既にステージ4で、癌は胃を中心として周りの臓器にも広がっていて、もう手の施しようがない状態だった。医者からは余命半年と言われた。
なんでもっと早く病院に行くよう母に助言をしなかったのか。もっと早く行っていたら助かっていたかもしれない。助言をしなかったこと悔やんだ。
そして癌が分かった時に困ったことがあった。がん患者に病院側はアンケートを書かせるのだが、その中に「癌だった場合に告知して欲しいか」という問いがあった。すると母の答えは、「はい」でも「いいえ」でもなく「分からない」だったのだ。本人に告知するかしないかは家族、つまり父に託されていた。
父は母に「告知しない」という選択をした。「分からない」に〇をつけた母の複雑な心境も踏まえてそうしたのかもしれない。
さすがに5年以上も入退院を繰り返して治療をしていたので、最後は母は自分が癌だということに気づいたかもしれない。もしくは途中で父が伝えていたかもしれない。真相は分からないが、私はそのことについて触れる勇気がなく、父に確認したことはない。
余命半年と言われた母は苦しみながらも宣告よりもずっと長い5年以上の月日を生き延びた。

母は凝った料理を作るタイプではなかったし、料理が上手いかというと、まぁ普通だ。それでも私が好きな母の料理がいくつかあった。その一つに醤油ハンバーグというのがあった。醤油味に焼かれたシンプルなそのハンバーグは、レストランなどでは出てこないような庶民的なメニューだったが、シンプルながらにクセになる味で私はとても好きで、夕食が醤油ハンバーグの時は一人で5個くらい食べていた。
母が死んでから、どうしてもその醤油ハンバーグを食べたくなった。自分で作ってみようと思ったのだが作り方は知らない。ネットで調べても、醤油ハンバーグという名のレシピは出てきたが、母の醤油ハンバーグとは全く別物だった。料理にこだわりの強くない母の料理に使われる調味料なんて大体「醤油、みりん、酒」でほぼ成り立っていると言っても過言ではない。調理方法に至っても、小難しいことをしてるはずはない。
適当に作ったってなんとかなるだろう。そう思った。
しかし、いざ作ってみると、醤油はどのタイミングで入れるのか?みりんは入れるのか?など疑問点がいくつか出てきた。仕方がないので、焼いているハンバーグに醤油とみりんを混ぜたものをぶっかけて焼く、という方法で仕上げた。
仕上がったのは、醤油が焦げた、ただのしょっぱいハンバーグ。焦げたのは肉の中身に火が通ってないのに焦げやすい醤油をかけてしまったからだ。母が作った時のような香ばしさは全くなかった。

お弁当も醤油ハンバーグも、その他の母の独自の味付けのオリジナル料理も、当時は当たり前のように食べていた。
しかしそれが当たり前ではなかったということに気付いたのは、もうその料理を食べようと思っても食べられなくなってからだった。
お弁当を要らないなんて言うんじゃなかった。せめてわだかまりをなくしておけばよかった。もっと母の手料理を食べておけばよかった。レシピを聞いておけば良かった。時々そう思うことがあった。

しかし今、私も子供ができて感じたことがある。
子供のわがままなんて、子供当人が思うほど親はなんとも思っていない。自分の子供のわがままが迷惑だとか、憎いとか、思ったことは1度もない。親にとって子供はそういうものだと思ってるし、なんといっても自分の子供なのだから。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?