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「摂津国衆・塩川氏の誤解を解く」第二十一回 インタールード ― 幕間、及び雑記事色々 ―(その2)

城下町は本当になかった(?)三好長慶の飯盛城の山下(さんげ)を考える(予告)

さて、前回水運にまつわる話を延々申上げてまいりましたのは、次回の連載において、水運のエキスパート、阿波出身の「三好長慶」の本拠、河内・飯盛城(現・四条畷市、大東市)に触れたかったからです。

画像は、飯盛城から遠望した、我が東谷方面の光景です。獅子山城は見えませんが、羽束山(香下城、三田市)や、銀山の城山(猪名川町)は視認出来ます。

近年、発掘調査を含む飯盛城解明への動きには目覚しいものがあり、その成果は四条畷市教育委員会や大東市教育委員会の各ホームページにおいて、縄張図や赤色立体地図、復元イラスト、石垣等の遺構写真など、良質でヴィジュアル満載の資料(PDF)類を複数ダウンロード出来ます。

一方、飯盛城は現在「城下町がなかった」という評価が定着しています。既存の商人の流通ネットワークが発達していたから、城下町は不要だった、ともいわれています。また、「城下町の都市機能の代わり」を近隣の「三箇」、「砂」、「岡山」などの「町」が果たしており、飯盛城の「外港」は「三箇」であったとされています。(「飯盛山城と三好長慶」、戎光祥・2015)

なお、三好家の家臣達は皆、山上の「城内に家族ごと住んでいた」、つまり「侍町」は城内そのものであったので、飯盛における「城下町がなかった」とは「町場(商工業地)がなかった」ことに意味が限定されます。

確かに飯盛山麓には、(例えば)甲斐・武田氏の「甲府」や美濃・斎藤氏の「井口」(岐阜)、尾張・織田信長の「小牧」のような「大規模城下町」の痕跡は見当たらず、加えて三好家と「堺」をはじめとする大都市やその商人との繋がり等を重視すれば、刺激的な「新規城下町」を造らなかったという「無城下町論」は大筋としては理解しています。

[「山下」が無ければ城内は飢餓に…]


しかしながら、そういった次元ではなく、「無城下町論」では「飯盛城内に住む、支配者階級でもある、大消費人口が、日常の生活物資をどのように得ていたか」という具体的な映像がどうしても思い浮かべないのです。「町人地の無い江戸」が想像出来ないように。

「流通ネットワークが発達」といわれても、AmazonとかUBER EATSみたいに、比高300mの城まで配達してくれるわけでもないし…。「無城下町論」とは具体的には

「昼間は「仮設店舗」で賑わうが、日が暮れると店舗が撤収され、「振り売り商人」は各々の町に帰ってしまい、「夜間人口が激減」する」という意味なのでしょうか??。ともあれ冷蔵庫も缶詰もない時代です。

また、都市機能を代替わりしていたという「町」に至っては、「キリシタン集落ばかり」が挙げられているし(異教徒はどうするのか?)、日常の買い物には「遠すぎる」し(特に夏は大変な体力の消耗)、そもそも「町としても小さすぎる」(商品の奪い合いにならないか?)というか、「本当に「町」なのか?」という規模でもあるし、「舟で渡らなければならない“外港”」(2度手間である)なんて「発想が近・現代的」すぎるし、そもそも「イエズス会側の史料」に「これらの集落が商業で賑わったという記述」自体が存在しないし、なにかと「違和感満載」なのです。

加えて、こういった「復元案」には「“籠城”を念頭に置いた基本的な危機管理」や「物資の補給計画」が一切感じられません。

「飯盛落とすのに“城攻め”いらぬ。街道の二、三本も封鎖すればよい」で簡単に「干殺しの危機」に直面するのでは?と危惧するのですが、皆様如何思われますでしょうか。

[「北条」という「大手?」直下の集落]


代わりに私が注目しているのが、目下「過小評価」されている(というより“無視”に近い)飯盛城直下の集落「北条」です。小さな集落ですが、城から「最短距離」に位置する「大手」と思われる「城ヶ谷」の正面直下に「市場」という旧字名(!)が残っています。これは近江・六角氏の「観音寺山城」の麓「石寺」を思わせるポジションです。(「大東市史」(1973)の段階では指摘されていました。なお「飯盛山城と三好長慶」P49図においては「麓北市場」(私心記)が全く見当違いな場所に推定されています。)

また、「北条」は「水運」の面でも、権現川を通じて、実質的「外港」であったと推定される「津の辺」(「飯盛山城と三好長慶」P49図では水没させられている…)と共に、平底小舟程度であれば「深野池」から直接アクセスも可能であったでしょう。物資搬入には最適のロケーションなのです。(元亀元年(1570)、敵前の「野田・福島」へ物資搬入して橋頭堡を築いたという、あの「水軍の阿波・三好家」の山下(さんげ)ですよ!)というわけで、次回は「寿々さん」ではなく、「北条さん」が主役です。

[“超アウェイ”の中で]


実はこのテーマ、「麒麟がくる」に登場するであろう「三好長慶」を意識して、昨年の今頃に盛んにフィールドワークしておりまして、昨冬にはアップする予定だったのですが、(悪いクセで)膨大になり過ぎて一旦スランプになったヤツです(連載第18回冒頭で触れている)。複数の方に助言も頂き、不義理も重ねており、次回はなんとか「吐き出して」みたいと思います。なおドラマ中ではつい先ごろ、長慶さんが“飯盛城で薨去”されてしまい、結局間に合いませんでしたが…。

なお、「飯盛城」は三好氏以前に「木沢長政」や「安見宗房」が城主であった段階もあるのです。特に「木沢長政」という不思議な武将は、天文十年(1541)九月に塩川国満が「多田一蔵城」(獅子山城)に籠城、三好長慶(当時越水城主)を含む攻城軍に対して孤立した際、援軍(後巻)を差し向けてくれたという、稀有な存在でした。長政のおかげで国満の「首がつながった」わけです。そして長政自身は、塩川に手を差し伸べて身を滅ぼした感もあります。不思議なご縁ですが。

さて、画像をもう一度眺めてみましょう。多田荘方面は「木沢長政目線」で見れば「貴重な味方のいる辺り」であり、「三好長慶目線」で見れば、「なにかと刃向かう奴らのいる辺り」といった感じです。

というわけで次回は、塩川国満に救いの手をさしのべてくれた恩人「木沢長政」及び、寛大にも“塩川氏を滅ぼさずにいてくれた”大人「三好長慶」へ捧げたいと思っています。

(なるべく早急に(汗)第23回へつづく。2020,10,2 文責:中島康隆)


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