リキテンスタインの女

 ライブハウスというのは大抵地下にある。電気楽器を使い、ひょっとしたら工事現場より大きいんじゃないかってくらいの騒音が発生する可能性のある場所なわけだから、日本じゃそんなものは地下に埋めておくしかないんだろう。時々地表に出ているライブハウスというものも存在するが、そういう場合は駅前や盛り場といったそもそも雑音・騒音まみれの立地である。

  大学の友人がやっているバンドの企画したイベントに呼ばれて出かけたライブハウスも地下だった。土日に企画なんて、やるじゃん。と思ったら昼のイベントだった。昼の方が箱代安いもんな。はははー。
 ちょっと侮った気分で出かけたが、蓋を開けたら結構ちゃんと面白いイベントで、気分も上がって酒がうまい。ライブハウスの人もイベントの出来に満足したのか、夜の公演の準備が始まるまで中で打ち上げしていいですよ、というお達しが出る。お客さんの入りも結構よかったもんな。
 ライブを終えた友人がフロアに出てきたので乾杯する。
「めっちゃ良かったよ!」
「ありがと! あれ、今日一人?」
「うん、でも超楽しんでるよ、マジで良かった」
 お決まりのやり取りをしたらすぐ帰るつもりだったが、達成感に満ち満ちた友人のいい気分をお裾分けされたのか、僕もそのままバンドメンバーのみなさんに混ざって飲み続ける。

  友人バンドがライブハウスの人に呼ばれてどっか行った時にあらためて会場を見回していると、出演者のうちからも、「じゃ、お先でーす!」って手を振って退場する人が出てきた。もうちょっとしたら僕も帰るかーと思いつつも、結構酔いが回っていて、会場内の空いてるソファに座り込んでぼーっとする。よく見ると会場内でパーティー気分が続いているのはお客さんの方が多いかもしれず、ってことは本当に良いイベントだったってことだよなあ、なんてフワフワしみじみ思っていたら、

 ドカッ
 バシャッ

  膝の上に急な重み。それから襟もとに冷たい液体。
 痛っ。重っ。冷たっ。って感覚を同時に声は出せず、
「ぐっ」
 ってめちゃくちゃ微妙な声を上げる。

  目の前には同年代くらいの女の子の顔があった。

  リキテンスタインみたいな顔。

  リキテンスタインというのは画家の名前だから、正確には「リキテンスタインの描く女性のような顔」である。金髪に染めたボブカットでくっきりした眉毛。化粧のおかげなのか元の素材がそうなのか、目鼻立ちがしっかりしていて、美しく整っていて、どこか漫画みたいな顔。いや待て。「リキテンスタインみたい」と「漫画みたい」は「頭痛が痛い」みたいな二重表現だろうか?
「ごめーん、酔っぱらった!」
 僕の膝の上の彼女は《鏡の中の少女》みたいな顔でアハハと明るく笑い、僕の肩をポンと叩いて笑顔で謝る。カラッとしていてその振る舞いも軽くてポップアートみたいだ。
 彼女はふらふらしつつも僕の膝から立ち上がり、一緒に来た仲間たちだろう、打ち上げの輪のひとつの中に戻っていく。手にはグラス。中身はほとんど入っていない。僕のTシャツが吸い取った。
「なーにやってんだよ」「ちゃんと謝ったー?」
 仲間に諫められ、彼女はあらためてこちらに向かって手を合わせる。
「ごめんなさーい!」
 照れ笑いの混ざった謝罪顔も漫画ちっくで、もはや軽薄と言っていいかもしれない。
 でも酒で増幅された気分の良さも手伝ってか、彼女のあっけらかんとした態度に僕は好感すら覚えてしまう。ポップだなあ。こんなんもう、文句も出ないって。片手を上げて会釈する。

  友人がフロアに戻ってきたら、襟元からアルコールが染みてビタビタになっていた僕に気づいて、物販のTシャツをくれた。ありがとう、友よ。
 新しいTシャツに着替えて、外に出た頃には日が暮れ始めていた。でもまだ明るい。
 駅までの道すがら、酔い覚ましの水を買って、電車に乗る前の一服、って駅前の喫煙所に入ると、そこにリキテンスタインの女がいた。
 連れ立っていた仲間たちとは別れたようで、彼女は一人で煙草を吸っていた。しかしその顔からは表情が消え、能面みたいな顔でスマホを眺めている。

  本当にこの人だっけ? 服装は同じっぽいけど、違う人か?

  ついちらちら盗み見るようにしていたら、目が合ってしまった。向こうが軽く会釈する。
 その会釈の顔も無表情で、さっきまで顔面ではじけていた生気がすっかり鳴りを潜めてしまったみたいだ。まあ赤の他人にはそこまで愛想よくしないか。ここはもうライブハウスではない。
「さっき、すみませんでした、膝乗っかっちゃって。ほんとごめんなさい」「あっ。いえいえ」
 あら。なんか気さくに話しかけてくれた。でも心なしか顔色が悪いような気がして、思い切って会話を続ける。
「……あのー、もしかして具合悪くしてたりします? 水ありますけど、いります?」
「や、平気です。全然元気ですよ」
「それならいいんですけど。なんか顔色悪いかなって思って」
「そうですか? 確かに飲みすぎたけど、今はもう大丈夫」
「みんな飲みまくってましたもんね。今日いた客全員、絶対売り上げ貢献しましたよ」
「確かに」と頷いて笑う顔はやっぱり控えめで、やっぱりこの人、全然リキテンスタインじゃなくなっている。
「いやー、でも注意ですね。マジで飲みすぎました、ご迷惑おかけしてごめんなさい」
「いやいや、全然、そんな気にしないでください」
 更に律儀に頭まで下げられてちょっと面食らう。うおー、全然ポップじゃない。普通に感じのいい子だ。
「今日はどのバンド見に来たんですか?」
「友達のバンドで、今日の主催の……」
「あー、トリのバンドの。私はトリ前のバンドのライブによく来てて」
「よく対バンしてるみたいだし、じゃあまた会うかもですねー」
「ですねー。じゃあその時、また」

 当たり障りのない会話をして別れたあとも、彼女の二つの顔が僕の頭に残っている。
 明るくあっけらかんとしたポップな顔と、律儀で殊勝ないい子の顔と、どっちが彼女の素なんだろうか?
 今日会ったばかりで数分会話したくらいの僕に分かるはずもない。
 どっちにしろリキテンスタインの顔ってことか。
 リキテンスタインの女性の絵の多くはコミックからの引用で、その引き延ばしだ。文脈から切り出された、演技じみた顔。
 もしかしたら彼女の顔に限らず、実生活で遭遇する他者の顔の多くはそんなもので、「素の顔」、「本当の顔」なんてものはライブハウスより深い深いどこかに秘匿されているのものなのかもしれない。
 まあ、うるさいもんな。感情むき出しの顔って。
 先月別れた元カノとの最後の喧嘩を思い出してしまい、辟易する。

  自宅の最寄り駅に着いて商店街を歩いていると、ドラッグストアやらスーパーやらから、やいのやいのと店内放送が漏れて聞こえてくる。ポップな音楽に、無駄にテンションの高いアナウンス。正直うるさい。
 動いたことであらためて酔いが回ったのか、キンキンした音が脳に響いて吐き気がしてくる。

 おいおい、騒音は地下に埋めておくんじゃなかったのか?
 本当にうるさいのはどっちだよ?
 誰が聞いてんだよそのアナウンス。聞こえてても聞いてねーよ。

  悪態が頭の中に次々湧いてきて、僕はどうやら酔いがまだ醒めていない。 
 そして僕の悪態に誘われたのか、あるイメージが脳に召喚される。最後に見た元カノの顔。

 「『ごめん』『そんなつもりない』『次から気を付ける』って、お前、いっっつもそー言ってさあ、結局嘘なんだよなあ! テンプレ話法で逃げるのやめろ!」

  キャンキャンと叫び、キレ散らかす元カノの顔が頭の中に浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返す。くそー。うるせー。
 うるせーけど、でもちゃんと聞こえていた。図星で胸にグッサリ刺さっていた。
 彼女の言う通りなのだ。
 波風立てずに振舞っていた僕の空っぽな言葉の方が、ずいぶん耳障りでうるさかったことだろう。

  本当にうるさいのはどっちだよ?

 脳裏にアニメーションみたいなイメージが浮かぶ。
 モグラたち。わななきながら、横一列の穴から次々と顔を出し息を吸い込む。

  うん、酔っぱらってますね。全身から血の気が引いていくのが分かる。オエッ。いよいよ吐きそう。
 よろよろしながら家路を急ぐ。道行く人に今の僕は「酔っ払った大学生」にしか見えないんだろうし、確かにそう通りなのだが、それだけが僕ってわけじゃないんですよ。

  ガシャーーーーン

  足がもつれて、定休日のシャッターに身体を打ち付けて大きな音を立てる。何人かの通行人が、驚いた顔をしてこちらを振り返るが、眉をひそめて立ち去っていく。うーん、全然だめです。
 気を紛らわせたくてあのリキテンスタインみたいな女の子を思い出そうとしても、絵の顔が浮かぶばかりで、その顔はもうよく思い出せなくなっていた。きれいな子だったのに。また会えるだろうか。その時、彼女に気づけるだろうか。彼女は僕を覚えているだろうか。
 連絡先、聞いておけばよかった。あーあ。

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