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夢から覚める時

夢から覚めるということ。
我々が今直面しているのは理想の持続性ということではないのだろうかと思うのだ。

我々は贅沢な犬だ。例えば、国家や企業の広告に映る世界は贅沢で、イケメンだらけで美女だらけだと言う、もちろんこれは雑な例え話だが、これは本当にその通りかもしれないしどのように世界を認知するのかなんて各々だろう。だから世界は不幸なのだ。我々は短期的に夢を見させられ、殆ど断絶的に夢から覚める。いずれまた現実に耐えられなくなってまた夢を探す。
世界は何も変わらない、各々が今夢を見たいのかそれとも現実を知りたいのか。殆どそれだけなのだ。

私は出来ることであれば、愛する人と同じ世界にいたい。でもなかなかそれは難しいのである。
彼女が求める世界に私は行けない。私が求める世界に彼女は行けない。
でも手を繋いでお互い違う世界を見て上がったり下がったりする。これが今僕が見ている世界だ。

僕は昨日夢を見ながら、将来について現実的な選択をした。夢を見ながらだ。
何故かは自分でも分からない。僕らしくない選択なのに殆ど反射的に理想と直結していた感覚があった。でも恐らくそれは僕にとって良い選択なのかもしれないと思う。

僕は3ヶ月前までとても現実的な世界を歩いていた。本当に数少ないちっぽけな理想だけを握りしめて最後まで握りしめて帰ることが出来たのが幸いではあるが、現実的な世界ではこんな僕までもたまに神経症になるシビアな世界だ。でもいつしかそこから逃げるように夢を探し、幾分僕の心にゆとりが生まれ、頭の中はとろーんとして世界はみるみると美しさを取り戻すのだから不思議なのである。そしてそんな気分は懐かしかったと気付いた時、僕は現実に侵されていたのだと分かるのだ。つまり地獄にいる感覚というのは本当の現実のことで、耐えられなくなれば人は夢を見る。当たり前の話か。

夢を見させたり地獄を見させたり。見させられたり見させられたり。我々は十分忙しい。
そして何が嫌かって、夢から覚める時というのは殆ど断絶的に覚めるのだ。僕がこれを書く少し前に丁度夢から覚めたばかりだ。おはよう僕の愛する人達よ。なかなかいい夢を見た。

でも僕は昨日夢の中で現実的な選択をしたのを今覚えている。そして現実的な選択だけど夢から覚めても、悪くないと思えたのでやってみようかななんて思っている。
僕は夢の中で何かを拾って帰ってきたのだ。現実的であった僕のプライドが許さない(許さなかった)何かを僕は夢の中で許し、現実に戻って再度許した。
そして自分流にそれをデザインして行動に移そうと思っている。

夢の中で現実的なものを拾うということ。それは不思議な経験である。
今の僕の頭の中は、またいつでも夢に戻れる、現実もなかなか悪くない、そんな立ち位置にいる気がする。

我々が生きている現実というのは何も変わらない、だから恐ろしい程に飽き飽きする世界だ。
そして変わるのはいつだって自分が認知する世界だ。そしてそれが紛れもなく我々の現実の世界に直結するのである。そうして世界が変わるような気がする。今の僕らの見ている世界というのは、現実と夢が巧みにミックスされている。しっかりと観察すれば概ね簡単に振り分けられる。
それらは僕らの欲望と直結し、我々のフェティッシュも変えられていくのである。

それでも私は手を繋ぎたい人達がそばにいて、これが本当に大事なものだ。僕の記憶も愛する人達の記憶も、手を繋いでいなければ忘れてしまうだろう。

私が愛する人というのは夢にいる時も、夢から覚めても愛する人なのだと思う。

こんな気恥ずかしいことを書いてしまったのだから、まだ僕は寝ぼけてるのかもしれない。

エッセイスト 秋野 藤吾

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