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歴史を踏みしめる【ムカサリ絵馬】その五 若松寺 完結編

 和室の欄間あたりの高さから天井に向かって、沢山の絵馬が設置されている。描写された夫婦二人の背景は、黒鳥観音堂で見た絵馬と同様に神社仏閣の鳥居や境内と思しき場面が割合として多い。その他、観音様が上部に描かれた絵馬もある。本坊内は撮影禁止なので写真はないが、若松寺の公式ホームページに掲載された画像があるので、そちらを引用させて頂く。

若松寺ホームページより引用。撮影は禁止

 再び、腰を下ろして鈴木さんにいくつか問うてみた。

「ざっと見せて頂いたのですが、この部屋だけで絵馬はいくつぐらいあるんですか」

「うーんどうだろう・・・。今日の時点だと一〇〇近くあるんじゃないの」

 本坊には、しばらくの間は新しい絵馬を安置しておくそうだが、古いものは後に場所を移して大切に保管するという。私がざっくりと数えてみただけでも、本坊の一間には凡そ八〇から一〇〇以上の絵馬が確認できた。ということは、年間でどれほどの絵馬が奉納されるかは想像に容易い。

「江戸時代末期に最上川周辺で始まった風習と聞いてますが、長い歴史のなかで、奉納のピークってあったんですか」

「今よ、今」

 想定外の答えが返ってきた。風習というものは廃れるものも当然あるが、若者の婚姻件数の減少や葬式の簡略化などの時代の流れを鑑みると、ムカサリ絵馬は現代よりも風習の発生時期に隆盛を極めたのではないかと私は思い込んでいた。

「だってこの部屋、半年持たないんだよ」

「それはメディアによって情報も広まったからですよね」

「You Tubeのせいで」

 仰ることに納得した。確かに一地域における風習ではあるが、江戸時代に比べればインターネットを通じての情報拡散は今や素早いわけであり、局地的に行われていたであろう当時よりも、風習を知った方が遠方から来る機会も増えて当然だ。
 お話を伺うと、沖縄からの奉納や、海外からの奉納例としては韓国や台湾も過去にあったという。

「一番古い絵馬だと、いつ頃のものになるんですかね」

「江戸時代のものかな。残ってるやつは」

 ムカサリ絵馬の発生起源や時期は明確ではないが、山形県の東側に位置する村山地区、とりわけ最上川周辺で起こったとされているのが定説だ。

「ここに入ってくるときに、入り口の横に建物あったでしょ。絵馬堂なんだけど。古い絵馬はそっちに移すからね。ファイルに閉じて保管したり」

 絵馬の数が多いので、全ての奉納年月を目視する事は出来なかったが、本坊では、つい先週奉納された新しい年月の絵馬を発見した。絵のタッチから推測するに、絵馬師に依頼したわけではなさそうで、どちらかというと心を込めて描いた似顔絵のような、多幸感が伝わる現代的な絵馬であった。

「どんどん増えてるけど、一三〇〇は超えてるからね」

 若松寺のホームページや戴いたパンフレットにも、その時点での奉納件数が記されている。本坊の様子を見るに今後も増え続けることだろう。
 ここで、気になるのは「若松」という名称だ。「若松寺(じゃくしょうじ)」と言ったり「若松観音(わかまつかんのん)」と言ったりするので、どのように使い分けているのか鈴木さんに聞いてみた。

「ここはね、『ワカマツ地区』という集落なんですよ。入口、入って右の階段上ると、観音堂あったでしょ?あそこは『ワカマツ観音』。この世での縁結びを祈願するところ。で、下のこっちは『ジャクショウジ』。あの世での御縁を祈願するわけで、使い分けてるんですよ」

 なるほど。前回の記事でも少し触れたが(歴史を踏みしめる【ムカサリ絵馬】その四 若松寺)、この世とあの世での縁結びを願う人々の気持ちを受け止めてくれるというわけだ。家族を失った遺族、そして明るい将来を願う現世の人々、それぞれの想いや生と死の観念が交錯する境内にいることで背筋が伸びた。

「こちら以外にも、例えば黒鳥観音や山寺がありますけど、各お寺で絵馬師の方が担当が決まっているとか、今も昔もそのようなことはないですか」

「ないない。今はもう、一人に集中してるからね。髙橋知佳子って子。あの子は随分と長いよ」

 長い歴史があるので、各寺に担当の絵師がいるのかと思っていたが、過去にもそのようなことはなさそうであった。勿論、私も髙橋さんのことは各メディアを通じて存じ上げている。絵馬を描く依頼が殺到しており、予約が二年待ちとのことだ。

プルルルルルル・・・。

「ちょっと待ってね」

 電話を取りに鈴木さんが一時席を立たれた。そこで、再び、絵馬をゆっくり観察してみた。髙橋さんの絵馬には特徴がある。後光を浴びた観音様が絵馬のどこかに新郎新婦と一緒に描かれている。二人を温かく、そして優しく見守ってくださっているようで、見ているこちらまで供養の気持ちが籠る絢爛な絵馬だ。

「えー、手拭いにするとか、そういうのはやっておりませんので。ええ。基本的には、故人の為に御家族自身の手で描いて頂いて、それを奉納すると。絵馬師の方に描いて頂いて奉納するのも可能ですが」

 座敷の奥から電話の会話内容が聞こえてくる。察するに、供養を検討している御遺族が、絵馬ではなく何か手元に形として残る物を制作したいとの想いを鈴木さんに相談しているのだろう。
 受話器を置いた鈴木さんが戻ってきた。

「少しお話が聞こえてたんですが、絵を手拭いにされたいと?」

「そうです。でもそれは、うちの本来のやり方ではないのでね。絵が上手いとか下手は関係ない、と。気持ち込めて描いて持って来てくださいと。それが私たちの願いなんです」

 こうして取材をさせていただいている最中にも、ムカサリ絵馬についての問い合わせが入っているわけだから、絵馬を納めて故人を供養したいという御遺族の想いが如何ほどのものか、胸に響く。
 絵の描き方やスタイルのお話から派生して、次に注意事項について鈴木さんは言及された。

「配偶者は実在する人を描いてはいけない。架空の人を描く。実際に連れてかれた人いますから」

 過去の記事でも、絵を描く時のルールや決まり事について触れたが、ムカサリ絵馬に限らず、風習や葬儀の際に連れて行かれない為の工夫は各地に存在する。例えば、棺に身代わりとしての人形を入れて火葬したり、友引の日を避けて葬儀を行うなどはよく知られているだろう。しかしここで留意しておきたいのは、何故、実在する人物を描いてはいけないという「ルール」や「禁忌」にまで発展したのか、ということだ。
 つまり、過去に実際に連れて行かれた人は、一人や二人ではない。決してそう少なくない人数で事例があったからルールにまで発展したと考えられる。少ない人数であれば「たまたま」と思われて気に留めないだろう。

「ありがとうございました。こういう風習はなかなか地元では見られないので、末永く残ってほしい風習だなあと思います」

「残っていくでしょうね。んで、さっき言った古い絵馬はね、絵馬堂にありますからね。帰るときに見てってください。これ、わかる?」

 御挨拶を済ませて席を立つと、鈴木さんが膝元程の低さに飾られたサイン色紙を指差した。

「あばれる君(笑)この前、来たからね」

 直近でもメディアの取材があったらしい。実は、お笑い芸人のあばれる君がロケをした番組は、私が訪問した翌月にテレビで放送された。テレビ東京「やりすぎ都市伝説」であった。

「ありがとうございました。では、絵馬堂、見せて頂きます」

 こうして、私は本坊を後にした。入り口に向けて歩き出したが、絵馬堂に近付くにつれてエンジン音が聞こえてきた。どうやら帰路のタクシーが既に入り口前の駐車場に到着していたようだ。送って頂いた同じドライバーさんがこちらを向いて立っている。

「すいません、最後に絵馬堂を見学して帰りますので・・・」

「あーその隣ね。鍵、開いてるでしょ」

 何度も来たことがあるというドライバーさんが先導してくれた。絵馬堂は、衆生を疫病から救うために修業したとされる元三大師が祀られた御堂の下部(一階部分)に設けられている。引き戸を開けて一緒に絵馬堂に入る。

元三大師堂上部
元三大師堂下の絵馬堂

「この辺のは古いからねえ。明治とか、大正」

 ドライバーさんが呟く。室内はほとんどが年月を重ねた絵馬で覆われており、丁寧に描かれた御遺族の気持ちが反映されている。写真がなかった時代に故人と架空の配偶者を想像して絵馬を描くことは、現代の絵馬を描く作業とは感覚は違ったことだろう。ちなみに、ドライバーさんは年配のベテランであったが、身内で絵馬を奉納したことはないという。
 一通り見学して、絵馬堂を出た。

「じゃあ、天童駅まで」

 タクシーで往来すると、それほど駅から時間は掛からないためか、ここが山奥だという実感はあまりないが、人里から少し離れた場所に、今もこうして息衝く風習がある。そんなことを体感できた取材となった。(終わり)

※取材訪問は二〇二三年六月です。絵馬奉納数やその他の情報は当時のものです。

若松寺や記事中でご紹介した絵馬師の髙橋知佳子さんのホームページを下記に掲載いたしますので、ご興味のある方はアクセスされてみては如何でしょうか。

参考・引用元

若松寺 若松観音 縁結び 山形県 (wakamatu-kannon.jp)

Home | mukasari-ema (jimdosite.com)

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