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マクニール『世界史』ノート③自由主義・民主主義に対するアフリカとオセアニアの反応

マクニールの『世界史』を簡潔にまとめた内容を投稿していくシリーズ。今回は前回と同じく産業革命が起きてから第二次大戦終結までの期間における、アフリカとオセアニアへの影響を俯瞰してみる。

この時代は一言でいうなれば、西欧の帝国主義による植民地支配の時代。つまりヨーロッパ人によるアフリカ、オセアニアへの侵入の時代といえよう。

時代

1850-1945年:産業革命〜第二次大戦終結まで

アフリカの反応

アフリカは長らく開拓されてこなかったが、その理由は主に以下の3つの事情によるところが大きい。

①農業に適さない土壌・天候
②蚊などを媒介とした感染症
③交通事情の悪さ

地域の統一が難しいため統一王朝的な組織は現れず、その結果、世界一多様な文化、言語、身体的特徴が育まれた。逆にいうと中国などはこのような制約がなかったからこそ、次々と王朝が現れたのかもしれない。言語はアラビア語(セム語派の一言語)、バンドゥー語、スワヒリ語などが代表的だ。

西欧による植民地支配の主な目的は、「貿易の拡大」と「キリスト教の布教」をメインとし、それに加えてアフリカ人に文明の光をもたらすという帝国主義的お節介も含まれる。また、この時期アフリカではイスラム教の布教も盛んに行われ、西欧諸国への対立感情と結びつき、アルジェリアのサヌーシー教団、スーダンのマフディーの乱などが各地で抵抗を繰り広げた。

オセアニアの反応

イギリスの産業革命によって輸送手段と交通手段が向上し、人間が到達できる範囲が広がったことで、オセアニア(主にポリネシア諸国)にも白人が入植し、各国に併合されることとなる。

ハワイ:1898年(アメリカ)
オーストラリア:1901年(イギリス)
ニュージーランド:1907年(イギリス)

このようにして、人類は急速に均質化されていくこととなった。アフリカとオセアニアは植民地支配を経て、この時期に急速な西欧化を迎えたが、それまでそうならなかったのはひとえに地理的な事情が大きい。

まとめ

西欧で起きた産業革命による交通手段の劇的な向上を受け、ヨーロッパ人は地球の未踏の地にも続々侵入し、それにより人類は徐々に均質化されていった。アフリカとオセアニアは1850-1945年までの約100年間に集中的な西欧の侵略を受けて、現地の文化は大きく後退する結果となった。

日本から遠く離れたこれらの地域は、外部に侵略されることのなかった日本とはまるで異なる運命を辿っている。西欧、アジアと比べると文化的接点もそれほど多くはないが、インターネットによる情報の均質化が進んだ今、両者の心理的な距離は昔ほどは離れてはいないのかもしれない。そういう意味では、肌の色は違うが、精神の均質化は今後ますます進んでいくのだろう。

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